ドキュメンタリー映画「AA」〜音楽批評家・間章 間章を知るために

単行本未収録ライナーノート
ファー・イースト・ファミリー・バンド[天空人](1977年11月)
日本コロムビア LX-7029-M

天空人 Side A
1.DESCENSION
2.天空人
3.TIMELESS PHASE
4.叫び
Side B
1.流れ
2.FROM FAR EAST
3.TIMELESS PHASE

宮下文夫 (vo, eg, ag, synth, bamboo-fl), 福島博人 (eg, koto, vo), 原田裕臣 (ds, perc), 深草彰 (eb)

録音:1977年

 内なる空を見つめる人はそこにすべてを見るだろう。そしてさらに大いなる時と波動の中でその人は覚め、舞い、そして限りない旅を飛翔する「天空人」となるだろう。

間 章(AQUIRAX AIDA)



Phase 1
 「すべてのものはじっと見つめる水だ」と言ったのはフランスのシュールレアリスムの詩人だった。そして「すべてのものをじっと見つめる時そこに無限の拡がる空を見る」といったのはインドの聖者であった。ひとつの物、この一瞬、ひとつのイマージュ、ひとつの直感、ひとつのフィーリングそれをあらゆるとらわれから離れてじっと見つめる時、人はそこからまぎれもないひとつの〈旅〉を始める。その時〈幻視への旅〉とそれを僕達は言うことが出来るかも知れない。ひとつの街角、ひとつの小石、ひとつの言葉、ひとつのコーフィー、僕達はどこからだってその〈旅〉を始めることが出来るのだ。静かに覚めながら限りなくひとつのものを見つめる時、見つめ続ける時、過でに僕達は単に外にある物を見つめているのではない。外なるものとそして内なるもの刺しつらぬいた広大なひろがり、エスパスを見つめているのだ。流れ、ただよい様々の動きとあらゆるものの反射を含んだ、あらゆる兆とあらゆる変化とあらゆる微細にして豊かなひとつの〈大いなるひろまり〉を見るのだ。そして見つめる事は何よりも〈体験〉し〈生きる〉事の他ではない。見つめるがいい、そして見るがいい。〈ここ〉〈今〉にしばられ〈思い〉にとらわれるのではなく限りなく自己を開き限りなくみつめるのだ。
 そして耳をすますがいい。あらゆるきらめき、ざわめき、ゆらめきが聞こえてくるだろう。そして貴方はそこで一人の〈生者〉として自分の生命の〈大いなる発現〉と〈流れ〉〈ひろまり〉を〈体験〉し〈生きる〉のだ。
 そして〈見つめる人〉は〈私〉を去るだろう。〈私〉の部屋のいたるところに開かれた〈窓〉を見い出すだろう。そしてその〈窓〉から何処へだってゆく事が出来る。そのような〈旅〉だって出来る。その時こそ貴方は果てしないやさしさと謙虚さに満ちた真の〈一者〉に成り、貴方の〈空〉と〈海〉と〈太陽〉を心ゆくまで享受する事が出来るのだ。

Phase 2
 見る事の旅、それを貴方はどこからでも始める事が出来る。いやそれはもう始まってさえいるのだ。例えば一枚のレコード、一枚の絵それを見つめてみよう。貴方はそこに全ての過去と現在と未来を通してある世界の一人の生き手たる貴方のすべてを予感することだって出来る。この「天空人」と名付けられた一枚のレコードそれはまさに貴方が貴方自身と出会うために生み出された音に満たされている。貴方が貴方自身と出会うために、貴方が貴方の内なる空を翔び、さらに限りなく多くのものに出会い、貴方の〈時〉と〈場所〉を生きるために。さらに未知なるものへの〈旅〉へ向かうために。ファー・イースト・ファミリー・バンド=F.E.F.Bの人達はまさにそうした1人1人の自由と旅のために音楽を生み出しているし彼等自身がより〈生きるため〉より彼等自身と出会うためにこのレコードを作ったと言えるだろう。だから〈天空人〉とはF.E.F.Bの1人1人の事であり、このレコードと出会い自分のより広い生と自己の内なる空へ向かってゆく1人1人の貴方の事なのだ。見つめるための音楽、見る事の音楽と僕がこのレコードの音達を言いたいのはそのためなのだ。確かにこのレコードの音達は聴かれるためというよりもそれ以上に見られるため生み出されていると思うのはこのレコードの音楽が単に物理的な音世界を超えたひろやかなきらめきや気配や予感を内に抱いているからだ。あらゆるかすかなざわめき、音のニュアンス、ヴァイブレーション、サウンドはあたかも大きな河の流れに例えられるかのようにさまざまのものをはらみ映し出しとどまることがない。それはすぐれてこのレコードが〈直感的〉(intuitive)である事を示している。そして〈直感的〉であるという事はそれがとても自由で豊かでのびやかである事を示している。僕達には、だからF.E.F.Bの多様な音を僕達の〈直感〉をとおして聴くことよりもずっと多く〈体験〉し〈見る〉ことが出来る。見る音楽と僕がこの音達を呼ぶのはそれが僕達に向かって開かれていて〈共に体験し〉〈共に生き〉〈共にヴァイブレートする〉ためにそこにひろがり僕達はこのレコードを聴くことによって僕達自身の〈内なるもの〉とグループの人達の〈打ちなるもの〉を見ることになってゆくだろうと思うからだ。

Phase 3
 かつてC・G・ユングは「空飛ぶ円盤は自分の内側からやって来る」と言った。そして「自己のミクロコスモスと宇宙のマクロコスモスのコレスポンデンス(交感)としてここにやって来るものだ」とも言った。又今世紀最大の神秘学者の1人C・W・リードペーターは「空飛ぶ円盤はどこにでもある。それは内なるものと外なるものが連なっているという事のひとつの具体的なシンボルとしてある。そしてクレールボアランス(clairvoyance=透視力)のあるものはいつでもそれを見ることが出来る」と語った。音楽のミステリアスな力を考える時、この空飛ぶ円盤に関して二人の語った事はとても示唆的だ。心が閉ざされている時、どのような音楽も何の感動も生まないし、又心が開かれている時にはおよそ考え得る以上の体験がそこにひらけてくる。言って見れば音楽とはそれを生み出したものとの一方通行にあるのではなく相互の適応能力、働きかけ能力、さらにはヴァイブレート能力の関わりの故にその真の生命力と力を持っていると言えるだろう。ユングの言うコレスポンダンス(交感)とリードペーターの言うクレールボアランス(透視力)といったものがここでも最も大切なものとして浮び上がって来るだろう。しかしコレスポンダンスとかクレールボアランスといってもそれはそんなに大変な超能力なんかではない。誰でもが持っている1個の人間としての感じ・働きかけ・ヴァイブレーションを合わせ・交流されようというひとつの開かれた心と体の持ち方のことなのだ。この「天空人」というレコードを貴方が聴く時に必要なのはただ自分の心を開き、音を見つめようとする精神なのだ。そうすれば貴方が1人の「天空人」となるだろう。いわゆるプログレッシブ・ロックにも大きく言って二つの方向がある。ひとつは音世界の改革と創造・構築でより広く新しい音楽の表現の可能性へ向かってゆこうとするもの、そしてもうひとつは音世界の在り方の内実を、いって見れば音楽体験世界の体験性を変えてより新しく豊かな音楽の在り方の質と位相へ向かってゆこうとするものである。前者が音の建築家だとすれば後者は音の旅人なのだ。そして僕にはこの「天空人」を作ったF.E.F.Bこそはより広く多様な内なる音、体験へ向って旅をする旅人のように思える。この「天空人」を聴く時、僕達が知る自然さは彼等が音を作り出す楽しみをではなく音楽を体験しそうにその体験からよりひろい体験の海と空へ乗り出そうとする彼等の自由で開かれた精神と感性から生み出されたもののように思う。それはとても貴重なものだ。そして「地球空洞説」「多次元宇宙への旅」「天空人」へと旅し続けるF.E.F.Bは一作一作と自然で豊かになりつつあり、時と覚めへのサーキュレーション=円環、F.E.F.BからF.E.F.Bへのオスティナートとリフレインをさらにはっきりとクリアーなものにしつつあるようだ。そしてこのアルバムのクリエイターとしての宮下文夫は一貫して彼固有のアイデアとサンチマンの世界を見続けそうなる自然さに辿り着いている。この自然さこそとても大切なものだしこの「天空人」を前の二作よりも生き生きとさせているものなのだ。

Phase 4
 ジャケットの絵を見てみよう。このポウル・ホワイトヘッドの手になる絵のジャケットはとても素晴らしい。文夫とポウルの出会いと結びつき、言ってみれば二人のコレスポンデンスなしにこのような素晴らしいジャケット、正に「天空人」のタイトルにぴったりのジャケットは生まれなかっただろう。その意味でもこのアルバムは幸運なアルバムだ。
 一見ダリ風のメタファーに満ちたこの絵はとてもシンボリックにアルバムの音楽を示している。画面左の老人と右の玉の乗ったお盆を見てほしい。影からみても判るとおりそれは共々に浮いている。老人はひとつの賢者としての生を、玉の乗ったお盆はそれ自体円盤でもあり又古来から言われている「賢者の石」「哲学の卵」をシンボライズしている。
 上空にうかんだ童女の顔、水平線へ向って連なる玉の乗ったお盆、これらは「智」と「賢」への道を示している。上空の童女、右下方の女性、左下方の老人を結ぶ、三角域の中に人間の秘密、人間の可能性の領域が示されている。そしてこの絵の最も大切な中心は海と空が出会った水平線であるだろう。実際この絵のまさに中心に光に照らされた水平線が描かれているが、この水平線こそ、人間の自我からの解放と解脱の水平線、自己存在、人間存在のヒエラルヒア(位階)をデセンション(下降)するかアセンション(上昇)するかの水平線なのだ。このような絵のシンボリズムを知る時こそ、まさにこのアルバムが「DESCENSION」から始まり「無時間位相」と「叫び」を通って「流れ」にたゆたい己のが身を置く場所たる「極東の地から」をへてひとつの「ASCENSION」へと辿り着くということへの意味も解されるだろう。このアルバム「天空人」はいわば精神と意識、内なる空へ結けての円環的メンタル・ドラマとも言うべき連続性を持っている。月並みな言い方でトータル・アルバムなどとは言いたくはないが地上へ降りて来て現世の様々な事共を体験し悩みそして永遠の時の流れに身をまかせまた覚めと共に上昇してゆく1個の人間としての「天空人」の旅がこのレコードの内に収められているのだが、それが又貴方の貴方の〈旅〉と重なってゆく所にこの音楽の他にはないリアリティーがひろがってゆく。そしてそれを生き、体験し、旅するのは1人1人の貴方なのだ。

Phase 5
 アルバム「天空人」は76年の秋から計画され77年の1月から8月までかけて宮下文夫の自宅のスタジオである「フミオズ・スペース・ルーム」で録音された後にストリングスの部分がコロムビアのスタジオで録音された。前作と比べて言うならばこのアルバム「天空人」はとても信じ難い程の高い音楽的境地とシンプリオシティーを生み出している。僕はそこにかつてないほど己れを見い出したF.E.F.Bの前進と発展を見る。メンバーも宮下文夫(Voc, Acou.G, Keyboard)原田裕臣(Dr, Per)福島博人(Elec.G, 琴)となり以前のメンバー深草彰(Elec.B)がゲストとして参加しているがこのシンプルな編成と全編におよぶ文夫のしなやかな演奏が何より最大のこのアルバムの成果を生んでいる。8ヶ月もかけて自由に細やかに録音した文夫はこの「天空人」によってついにひとつの到達点に辿り着いたと言えるだろう。そしてそれが体験と内なるものへの〈旅〉である以上この到達点は又新たなるもの未知なるものへの出発点とも言うべきものである。F.E.F.Bはついに自分達のサウンドと音楽の道を見つけた。この驚く程のびやかで自然で体験的なアルバムの音世界を見つめて僕はそう言うだろう。そしてそれ故に彼等のそうなる前進は約束された。僕はこのアルバムを手にした1人1人の貴方がこのアルバムの宇宙を自分の内なるものと同時にどのように体験し、旅するかなのだ。貴方自身が1人の「天空人」となるために。


※明白な誤植以外は原文のママです。

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