ドキュメンタリー映画「AA」〜音楽批評家・間章 間章を知るために

単行本未収録ライナーノート
ミルフォード・グレイヴス[メディテイション・アマング・アス](1977年12月)
キティ MKF-1021

メディテイション・アマング・アス Side A
1.トゥギャザー・アンド・ムービング
Side B
1.レスポンス

ミルフォード・グレイヴス (ds, perc, p, voice), 高木元輝 (ts), 阿部薫 (as, sn), 近藤等則 (tp, alto-horn), 土取利行 (ds, perc)

録音:1977年6月28日 ポリドール第1スタジオ
エンジニア:デヴィッド・ベイカー
制作:磯田秀人

「メディテイション・アマング・アス」
鮮烈にして開かれたラディカルな音達
−ミルフォード・グレイヴスへのオード−

Part 1
 この夏、2つの長い雨の期間にはさまれた短い夏の間に日本に滞在し様々な驚くべき活動を行ったミルフォード・グレイヴスはその滞在のすべての瞬間において本当に創造的であり主体的であり活動的であるとはどういう事かということをまさに鮮やかにして苛烈に示し、ミルフォードと出会い又共に活動した全ての人々に重く濃密な“体験”を残していった。私は今ふとふり返ってまるでミルフォードが滞在していた時期にだけ真の夏があったような思いにとらわれている。私を含めてミルフォードと関わった全ての人々がその“夏”の“季節”に体験し経験したものはまぶしいばかりに強烈でしかもしなやかで重いものだったが、それはそんな言葉をいくらあげつらねてもとうてい“全体”をとらえ返す事も出来ない“なまなましい”ものであった。そして私は今もその“なまなましさ”の“さなか”にいることをあらゆるものに触れ眼をとめながらも知るばかりなのだ。確かに私はまだそのひとつの持続の中に言ってみれば一人の主体者の修羅の“渦中”にある。
 そしてそれは多分これからの私の一生に常に重い波紋をく及み続けるひとつの“覚め”として拡がってゆき続けるだろう。
 ミルフォード・グレイヴスが我々に指し示したもの、いやミルフォードがあらゆる日常や演奏の活動によって我々の彼との関わりの中に浮び上がってきた彼の全体像というものはどのように言っても単にすぐれたミュージシャンやすぐれた音楽行為者といったものには決してとどまらない、もっと広く深く確かでのびやかで自由で強烈なものであった。私は今もミルフォードのことを考える時、彼のようにしなやかな強さとスポンティニアスなパワーとを持った、一個の生きた人間の全体としていつもアクティヴであり積極的で自覚的ある人間を何か“信じ難い”存在、“信じ難い”程に自然で自由で強烈な現実の存在として心の中で茫然としてしまうように見つめてしまう。そしてまぎれもない事実として私が彼と関わり彼を見、彼に触れたことの一切を現在進行形のこの“ここ”の中でさらに見つめ返そうとしている。
 そして彼のことを考えるたびにその余りの鮮やかさ故に私はいつも失語の状態になってしまう自分を発見する。
 彼はあらゆる形容詞を超えたまさに一個の生きた存在として活動し続けた。
 日本の7人のミュージシャンと持った合宿の期間、私は彼がドラムをセットしチューニングする10分位の間に本当に衝動的な体験をした。こんなすごいミュージシャンが本当にいるのか。私は彼がセッティングしている間にそう思って驚嘆した。それはセシル・テイラーにしろマックス・ローチにしろ決して見た事のない、すさまじくそして又自然な人間の生の現場であった。彼はその合宿練習の最初の5時間程で他のミュージシャンが2週間以上かかっても成し得ないだろう事を行なった。彼は全員で音出しながら一人一人に具体的に演奏で働きかけ短時間で7人のミュージシャンの演奏の位相やそのミュージシャンの資質、アクティビティーの質、それらのミュージシャンのダイナミズムやリズムやサウンドの固有性をすべてつかみきったのだった。アンサンブルを作り上げようとか何かへ統一させようとかいうのでは決してなく、ある特定のグループ・コンセプトやパターンやシステムを用意しようとかいうのではなく、彼はそれぞれのミュージシャンの肉体的精神的な資質と演奏が生み出される所の彼等の全体性(トータリティー)をつかみきったのだった。彼は全体がフリー・ジャズ特有のフリーク・サウンドで盛り上がった時には次のように言った。「そういう風に音だけで盛り上がるのは表面的でかえって全体のダイナミズムを減少させる。大切な事はいつも全体のダイナミズムとスポンティニティーだ。決して表面的、形式的、エゴイスティックに演奏してはいけない。全体をそして1人1人の他のミュージシャンをあらゆる注意力を払って見つめ聴かなくてはならない。そして常に前向きで主体的で行動的でなくてはならない。そして動き続け、変化し続けより具体的に働きかけなくてはならない」そして日本側の1人のミュージシャンについて次のように言ったものだ。「彼はどのような音を出しどのように演奏してもいつもひとつの演奏しかしていない。変化するのはものすごく表面的にだけだ。本当に変化しなくてはいけない、そして演奏とサウンドの表面に反応したりするのではなく互いの深いヴァイブレーションを読みとり深い所で演奏しなくてはいけない。そのためにはひとつのイメージや観念やフィーリングにおいて閉じていてはいけない。いつも開いていて、覚めていて、リラックスしていて、そして主体的、積極的でなくてはいけない」この事はとてもむずかしいことだった。日本のフリー・ジャズの多くのミュージシャンがそうであるようにフリー・ジャズとは自由気ままにアナーキーに演奏することであるというフリー・ジャズのイメージや固定観念は時として音楽の真の生命力、スポンティニティーを抑圧しさまたげる。即興演奏とは、フリーとは、行為の野放し状態において生み出されるものではなくて、自己の肉体、具体的他者、他者との関わり合いの必死なそれでいて謙虚で主体的な働きかけの運動にあり、それはひとつの必然を生み出すことだ。ミルフォードはまさにこれらの事をなまなましく具体的に教えた。そしてそれは日本のフリー・ジャズ・ミュージシャンがいかにせまいとらわれと固定観念とかたさの中に閉じ込められているかを思い知らされる程に強烈だった。ミルフォードの連続性、しなやかさ、スポンティニティーは想像を絶してさえいる程、すさまじく自然で激しいものだった。
 そして彼は我々に本当の“基礎”“音楽行為の根本”とは何かを教えたのだった。それは教則本的なものでも、音楽的なシステムでもない。なぜ演奏するのか? 何が演奏行為の根本にあるのか? というあらゆる問いに彼は身をもって答え、そしてそのように生きている。「自己の肉体こそ自己の基礎であり、自己の肉体のあらゆる機能を知ることなく自己の主体的な演奏は出来ない」『より生きる為に』より主体的に積極的に生きるために音楽をやるのだ」という彼の言葉はそれがまさに真理であるが時に我々の皆にとって真にショッキングであった。それはフリー・ジャズやすべてのミュージシャンが一番曖昧にしている無節度を告発し、彼の音楽の根拠がいかに彼自身の“生き方”“思想”と自然に連続的にしかも強固に何のいつわりも矛盾もごまかしもなく結びついているかをこそ教えたものであったからであった。

Part 2
 ミルフォード・グレイヴスは63年のまさにあの「ジャズの十月革命」の前夜にジャズシーンに登場した。その年まで彼は黒人コミュニティーの中ではハンドドラムの名手として知られていたが、トラップ・ドラム(ドラム・セット)をたたいた事がなかったという。
 その後のミルフォードは「ニューヨーク・アート・クワルテット」「ジュゼッピ・ローガン・クワルテット」「ドン・ピューレン・ミルフォード」「ローウェル・ダヴィドソン・トリオ」「アルバート・アイラー・クインテット」という新しいジャズの中心的グループのまさに中心的ミュージシャンとして活動した。誰でもがこの64年から67年にかけてのミルフォードのドラミングのすばらしさについて知っているだろう。だが彼の他に比すことの出来ない固有の活動と創造的な演奏はこの時期以後も驚くべき形で発展し続けていたのである。ただ我々が彼のそうした軌跡を知らなかったのは彼がコマーシャル・シーンから身をひいていたためなのだ。実際彼は68年から今日まで常人の想像をはるかに超えるアクティブな創造的活動を、非順応的にどこまでも主体的に、自覚的にすすめてきているのだ。これらの事の一切は多分一度だけでもいい彼の演奏を聴けば判然とするだろうと思われる。それ程に“今日の”ミルフォードの全体は強烈であり、誰も到達したことのない高い位階にあるとはっきり言おう。私はミルフォードはジョン・コルトレーンや、アルバート・アイラーやセシル・テイラーやオーネット・コールマンよりもさらに偉大な創造的ミュージシャンであるという確信をいだいている。私はそれをいかようにも説明する事が出来る。それは思い込み過ぎだとか言い過ぎだという良識的な意見もあるだろう。しかし私は気分で評価を変える類いの節操のない批評家ではない。私は私のトータルな生き方を通してしか音楽を聴き判断しないし、トータルな生き方、私のあらゆる意味での誠実さを込めての思想の持続とプロセスを通してしか批評しない。私が見るフォードを誰よりも高く評価するのは(私は今世界中のミュージシャンの中で創造的な高みにあるのはスティーヴ・レイシー、ミルフォード・グレイヴス、デレク・ベイリーの三人だと考えている)彼程にトータルな生とトータルな演奏行為=音楽を深い次元で又高いレベルにおいて実現しているミュージシャンがいないと思うからである。だから私は彼の超絶的なテクニック、比類ないパワーそこだけをとり出して論じようとしたり評価しようとはしない。ミルフォードのドラミングはジャズ史上最高のものだが、彼の全体はそれ以上に余りあるものだからである。私はマックス・ローチがいかにただたくみなドラマーであるだけであり、今は死んでいるかをいうことが出来るし、エルヴィン・ジョーンズがいかに“形式と制度”の中に取り囲まれていたかを論ずる事も出来る。そして又サニー・マレイがある特定の時期と情況下においてだけ自己のパワーを出すことの出来た一時期のドラマーかを確かに述することが出来る。ミルフォードのすごさ(このすごさという言葉がいかにもどかしいものか、そんな事でミルフォードの事を伝える事がイージーさを有しているかを知ってもらいたい)は無比のものだ。そしてそれはよく人のいうようにいささかも超人的なものではない。彼の比類なさは彼の1個の人間としての彼の自己組織者としての“生”“生き方”の全体において、まさにその全体とわかちがたくリアルに彼の音楽やドラミングが結びつきそこから生み出されている事にある。
 まさに彼はそのありのままにおいて完璧な自己の生と生活動の主体者なのだ。彼のドラムを聴いてほしい、このように豊かで深く多様で確かでスポンティニアスで自由で強烈なドラムがあっただろうか。このように生き方や世界観や思想・人格と完全に結びついた音楽があっただろうか。このようにラディカルなミュージシャンがあっただろうか。

Part 3
 ミルフォードはおよそ1ヶ月の滞在期間中に2つのレコーディングを行なった。ひとつは半夏舎によってなされた彼のソロ・レコーディングでありそしてもうひとつがこの日本のジャズの最前線にある先鋭的な4人のミュージシャンと共に行なわれた「メディテイション・アマング・アス」である。私は極言してはばからないが、」この「メディテイション・アマング・アス」こそ今日我々が知ることの出来る最も創造的にして生きた先鋭的な鮮やかな“今日のジャズ”のありかを示すものである。そしてその鮮やかさはこのレコーディングが単なるセッションをあらゆる意味で超えたところのミルフォードと他のミュージシャンとの「関わり合いのダイナミズムと運動」「相互の働き合いと主体的な体験」の中から生み出され、まさに生起し連続する「共同作業」においてこそ実現したことによっている。このレコードの中の曲は2曲とも(1曲は2パート形式になっている)すべてワン・テイクで録られたのだが、それはミュージシャンのすべてが、とりわけミルフォードがスタジオで音楽を作り上げるというのではなく何よりも生まな演奏の一回性にすべての働きかけとエネルギーを発現させ行うというそれ自体苛烈な演奏行為を生み出そうとしたからであった。「そこ(演奏の現場)には非常な一回性があり、そこにすべてが込められなければならない。2度3度とやる内にミュージシャンの間に予測やなれ合いが生じたり、(次はもっとどのように演ろうという)観念が強くなってくると、決定的に大事なものつまり新鮮さがスポンティニティーが失くなることがあるからだ」とレコーディング後ミルフォードは語っていた。
 彼は今日最高のクリエイティブなミュージシャンであり、今日最高のフリーにしてスポンティニアスなミュージシャンである。そして彼はその全生活・全活動・全行為においてまたとない自覚的な“重い”“強烈な”精神と肉体の所有者である。この事を私は百万回くり返し言ってもよい。
 このレコードの中に収められた演奏のどの一部でも良い聴いてみてほしい。これこそが今生きた最も自覚的で創造的なジャズである。ここではフリー・ジャズがその幻想性や観念性においてではなくまさに内実として高められ真に広く豊かな領野を生み出している。
 その中心はまぎれもなくミルフォードだ。しかしすべての集団音楽が、とりわけミルフォードにとって、クリエイティブなジャズにとってグループというものがそうであるように、ミュージシャン相互の働きかけと関わりにおいて開かれ闘われていうことにおいて「共同作業」「共同演奏行為」「行動演奏体験」である他ではあり得ない演奏においてこのレコードにおける高木元輝、近藤等則、阿部薫、土取利行の主体的な行為は彼等の演奏者としての栄誉というべきものである。彼等は現在の日本のジャズにおいて望み得る最高の演奏を行なった。A面の「トゥゲザー・アンド・ムーヴィング」は望み得る最高のレベルでのグループ・インプロヴィゼーションである。高木のしなやかな強さと豊かさ、阿部のするどく危機的なリリシズム、近藤ののびやかなダイナミズムと多様さそしてミルフォードのサポート的な役割を果たしたとは言え日本では誰一人持っていないスポンティニティを得て確かなドランミグを行なう土取、彼等の1人1人はそれぞれの先鋭さとラディカルさとそして謙虚さ作業性において日本のテナー、アルト、トランペット、ドラムスを代表するミュージシャンである。はっきり言えばこれらのミュージシャンこそがその内質において現在の日本のジャズの中心なのである。彼等にひたむきさと誠実さそして演奏者としての質はこの不毛な日本ジャズ界(イミテーター、形式主義者、スタイリスト、自己喪失者、自我信者(エゴイスト)、無関心者)の中にあってこの上もなく貴重な存在である。B面の「レスポンス」これは2パートに分れた演奏だがこの曲のレコーディングにおいてもミルフォードは途中でテープレコーダーを止めることなしに続けてワン・テイクで録音した。ここでは近藤のトランペットがフロントテーマ部分を演奏しているが彼のすぐれたトランぺッターとしての資質をA面と同様にはっきりしめしたものである。そして注目すべきは高木元輝の演奏の位相である。それはこの上もなく豊かで献身的で主体的で素晴らしい。いささかオフに録られているとは言えこの演奏の中で彼の果たした役割はとても重要なものである。そして阿部薫。彼のとぎすまされながらも美しいテンションは見事である。土取利行のドラムは例えば2パート目にミルフォードがピアノを弾いている時に見られるようにひかえめさの中にもしっかりとした核を持っている。最後にこの「レスポンス」でのミルフォードのピアノ演奏について触れよう。ミルフォードのピアノはこのレコーディングが初レコーディングであるが、この日の彼のピアノ演奏を聴いて、すべての人間がまさに驚嘆したようにそれはタッチ、アタッキング、サウンド、アクションのすべてにおいてまったく驚くべきものであると言わねばならないだろう。かつて(66年)彼がセシル・テイラーとコンサートを行ったおり、彼が誰もいないステージでピアノを弾いているとセシルがやって来てじっと聴き入り、頼むからもう少し弾いてくれと言ったというエピソードがあるが、ミルフォードのピアノは正直、ドン・ピューレン、ジュゼッピ・ローガン、セシル・テイラー以上のダイナミズムを持っている。そしてそのタッチとトーンと切れ味においてまさに比類がない。
 このレコードはおそらくそれぞれの人間の一生の内でもそうないだろう“鮮烈さ”をきざみ込んだレコードである。そしてその“鮮烈さ”は“鮮烈な体験と出会い”としてさらに鮮烈に生き続けるだろう。1人でも多くの自覚的なジャズ主体者・聴衆がこの鮮烈さの中を歩み、体験しさらに豊かな出会いの方へ身をのり出してゆくのを私は願ってやまない。

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