ドキュメンタリー映画「AA」〜音楽批評家・間章 間章を知るために

単行本未収録ライナーノート
V.A.[ワイルドフラワーズ/ニューヨーク・ロフト・ジャズ・セッション1](1977年10月)
日本フォノグラム RJ-7306

ワイルドフラワーズ1 Side One
1. ジュイズ
カラパルーシャ (ts), クリス・ホワイト (b, eb), ユマ・サントス(ds)
2. ニュー・タイムズ
ケン・マッキンタイヤー (as), リチャード・ハーパー (p), アンドレイ・ストロバート (conga, perc), アンディ・ベガ (conga)
3. 虹の彼方に
サニー・マレイ (ds)&ジ・アンタッチャブル・ファクター(フィーチュアリング)バイアード・ランカスター (as) [デヴィッド・マレイ (ts), カーン・ジャマル (vib), フレッド・ホプキンス (b)]

Side Two
1. レインボウズ
サム・リヴァース (ss), ジェローム・ハンター (b), ジェリー・グリフィン (ds)
2. USOダンス
エアー [ヘンリー・スレッジル (as), フレッド・ホプキンス (b), ステイーヴ・マッコール (ds, perc)]

1976年5月14〜23日 ニューヨーク、スタジオ・リヴビーにて実況録音
制作:アラン・ダグラス、マイケル・カスクーナ
監修:サム・リヴァース

■ニューヨーク・ロフトのサキソフォニスト達

 75年というのは「ロフト・ジャズ」のまさに創世期にあたる年である。この年ロスコー・ミッチェルやアンソニー・ブラクストンは本格的にニューヨークに住むようになったし、オリヴァー・レイクはやはり渡欧を終えニューヨークに活動の場を移した。デヴィッド・マレイがロスアンゼルスからニューヨークへやって来たのは74年の秋だったし、セントルイスのBAG(Black Artists Group)やM BALl productionのジュリアス・ヘンフィル、チャールズ・ボボ・ショウが自主的な活動を本格的に展開していったのも74年から75年にかけてだった。この75年の春に「スタジオ・リヴビー」は初めての「スプリング・フェスティヴァル」を行ったのだった。全米の各地から続々と集まって来た気鋭のミュージシャン達がひとつの活性的な情況を生み、それが「ロフト・ジャズ・ムーヴメント」として現出し高まるまさに前夜とも言うべき年がこの75年であった。
 バイヤード・ランカスターがデトロイトからニューヨークヘ帰って来たのも、後にセシル・テイラーに抜摺されて彼のグループに参加し新世代を代表するサックス奏著となったデヴィッド・ウェアがシーンに登場し始めたのもこの75年である。ここで気付くだろう事は、この74年から75年にかけて実に多くサキソフォニストが活躍し登場し後の「ロフト・シーン」の中核を担うようになって行ったという事である。ここにあげたサキソフォニストの他にもこの時期にはニューヨークにフランク・ロウ、チャールス・タイラー、カラパルーシャ、ハミエット・ブルイエット、ヘンリー・スレッジル等のサキソフォニストがすでにおり演奏活動を行なっていた。まさにキラ星の如くサキソフォニストが集結していったのであった。現在のロフト・ジャズ・シーンを考えると、かつての「10月革命」時と比べてもサックス奏者の多さが目立っている。「10月革命」の時にはサックス奏書は無論少くはなかったが、それ以上にピアニストやドラム奏者も多かった。この「ワイルドフラワーズ」シリーズ5枚の内にサックス奏者が16人参如している。その内74年から75年のいわゆる「ロフト・シーン過程」でニューヨークに登場したサックス奏者は6人である。このような事を書いたのは他でもない。現「ロフト・ジャズ・シーン」は完全な新しいミュージシャン達による新しい動向というわけではなく、より多く以前から活動していたミュージシャンと新世代との交感によっているし、その多くはシカゴ、セントルイスですでに自主的な演奏活動を行ない、ミュージシャンとして自己の位置を確立しているミュージシャン等によっている。例えばこの第1集だが、このアルバム中の17人のミュージシャンの内、真に〈新世代〉と言ってしかるべきサックス奏者はデヴィッド・マレイただ1人で、この2年位で注目をあびるようになったとはいうもののヘンリー・スレッジル等は69年位からすでにシカゴでは活躍していたプレイヤーだ。又他の楽器プレイヤーに目をむけてもこのアルバム中〈新世代〉と言えるのはフレッド・ホプキンス (b)の他にはサニー・マレイのグループのカーン・ジャマル (vibes)、ケン・マッキンタイヤーのグループのリチャード・ハーパー (p)、アンディ・ヴェガ (conga)位のものである。これらの事を考えても又音楽のあり方を考えても「ロフト・ジャズ・ムーヴメント」が「ジャズの10月革命」とはいささか趣きと内実の違ったものであることが判るような気がする。ロフトで活躍しているサキソフォニストの中で現在最も内質の高い創造的なサックスといった場合、私は次の10人をあげることが出来る。先ずアルトではロスコー・ミッチェルとバイヤード・ランカスターとオリヴァー・レイクがぬきんでているように思う。その次にジュリアス・ヘンフィルとチャールス・タイラーである。テナーではデヴィッド・ウェア、デヴィッド・マレイ、フランク・ロウ、カラパルーシャがベストのテナ−達だ。そしてこの他にバリトン・サックスのハミエット・ブルイエット、この10人があまたあるニューヨーク・ロフトのサックス奏者の中でも特に注目すべき存在である。この他に私は2人の旧世代のサックス奏者ケン・マッキンタイヤーとジミー・ライオンズをここであげておきたい。この『ワイルドフラワーズ』1集では6人のサックス奏者の演奏を聴く事が出来るが、その6人のサックスを聴く時、ニューヨーク・ロフトのサックス奏者のレベルの高さが自ずと判るだろうし、又彼等相互の位相の違いを通して「ロフト・ジャズ」なるものの領野の在り方を知るきっかけともなるだろう。

Side One
1.カラパルーシャ・モーリス・マッキンタイヤー
 カラパルーシヤは1936年3月24日アーカンサス州生れシカゴに育ったシカゴAACMの創立時のメンバーの1人である。67年レオ・スミスとグループ「Kalaparusha & The Light JAZZ Ensemble」を結成、その頃から「ロスコー・ミッチェル、レスター・ボウイ、ジョセフ・ジャーマンと並んで・シカゴAACMを代表するサックス奏者であった。彼の初リーダー作『ヒューミリティー(humility)』(Delmark)は69年に録音され『ダウンビート誌』では5つ星を、『ジャズ&ポップ誌』70年度国際批評家投票ベスト・レコードの部門で第6位となって高い評価を得た。その後も『Forces And Feelings』(Delmark 72年)を発表、近年ではカール・ベルガー主宰のCMCから『Kalaparusha』を発表している。 彼のプレイは極めて抑制された内省的なテナー・サウンドと、決して過剰にエモーショナルにはならない演奏が特質であり、そのテナーのトーンには彼特有の美しさとそして抑制した激しさと言ったものがある。シカゴAACMのミュージシャンの中で・もはっきりとしたテナー・サックスの個性とフォームの持ち主の1人である。AACMの中では一番早くニューヨークに移り、常に注目を集めているプレイヤーである。ここでの演奏はいわゆるクロスオーバー的なR&Bリズムでの演奏だが、彼のテナーの美しく豊かな響きはしなやかで見事である。

2.ケン・マッキンタイヤー
 1931年ボストン生まれのケンは60年にデビューした時,特異なアルト奏者として注目をあびたミュージシャンである。62年から83年にかけて彼は『Looking Ahead』『Stone Blues』(Prestige)『The year Of Iron Sheep』(UA)『Way, Way out』(UA)を録音、その“笑うような”“肉声にそっくり”のアルト・プレイで話題をよんだ。特にエリック・ドルフィーとの共演盤『Looking ahead』は当時最も特異で個性的な2人のアルト奏者の共演という事で注目をあびたのだったが、彼の個声をギミックとして白い眼で見る人も多く、やがて音楽学校での教師生活の方に重点を置くようになったが、それでも64年には Savoyにビル・ディクソンとレコーディング、Fontanaのジャズ・コンポーザース・ギルド・オーケストラの『Communication』レコーディングにも参加した。このように地味だが重要な活動を行っていたケンもセシル・テイラーの『Unit Structures』レコーティング(66年)参加後は殆ど完全にジャズ・シーンから姿を消す。そしてコペンハーゲンで『Hindsight』をレコーディング(Steeple Chase)して再び我々の前に姿を現わしたのは丁度8年振りの事であった。ステイープルチェイスで録音した3枚のアルバムにおけるケンはテクニックは見事なもののかっての個性と輝やかしさを幾分失しているように思える。しかし、ここに収録されたアルトの演奏は、その確かさと豊かさにおいて傑出したものでリヴビーでこの演奏(5月21日の最後のセットの最後の曲)を実際聴いた私はその張りつめたアルトの音とダイナミックなプレイに心底感嘆したものであった。そして、その時の演奏はまぎれもなく当夜最高のハイライトとなったものであった。

3.サニー・マレイ&ジ・アンタッチャブル・ファクター
 サニー・マレイはジャズの10月革命の中からミルフォード・グレイヴスと並んで登場した革新的なドラマーであり10月革命自体の最も強力な推進者の1人であった事は誰でも知っている。彼がアルバート・アイラーと録音した数枚のアルバムは彼のリーダー作『Sunny Murray』(ESP)共々真に新しいジャズの到来を告げたものだった。彼のアナーキーでヴァイオレンスに満ちたドラミングはまさに衝撃的なものであった。その彼は69年、70年の渡仏時のレコーディング『Hommage To Africa』『Sunshine』(BYG)『Big Chief』(EMI)以後深刻なスランプにおち入ってしばらく活動をひそめていた。そして彼がまたジャズ・シーンに再登場したのは75年「ロフト・シーン」の勃興と時を同じくしてであった。この『ワイルドフラワーズ』シリーズに収められた2曲の演奏は(もう1曲は第5集)、76年に録音された『New American Music Vol.1』中の1曲と共に実に7年振りのものである。確かにこれらの演奏にはかってのサニー・マレイのダイナミズムはない。ドラミング・スタイルも変わり聴き違えるばかりの変貌だ。彼は変ろうとして迷っているとさえ思える。そしてこの「Over The Rainbow」では先ずバイヤード・ランカスターのアルト・プレイがさえている。しばらくフランスで活躍していたバイヤードはアメリカに帰ってから田舎にいたが75年にニューヨークヘやって来てからは、ニューヨークきっての鮮やかなアルト奏者として注目され続けている。実際彼のアルト・サウンドは素晴らしく、この曲でもそれは証明されている。もう1人のサックス、デヴィッド・マレイは現在話題集中の弱冠22才のミュージシャンである。彼のアイラーばりのプレイもここでは光っている。そして最後にこの曲の演奏をひきしめニュアンスの濃いものにしているベースのフレッド・ホプキンスだが、彼の見事をベース・ワークは極めて新鮮である。まぎれもなく〈新世代〉の中核としての位置を確立している彼は〈新しい波〉の代表者の1人と言えるだろう。

Side Two
1.サム・リヴァース
 サム・リヴァースは1938年オクラホマ生まれの今年47才。64年にマイルス・ディヴィスのグループに加わることによってシーンに35才で遅いデビューをした。彼は65年ブルー・ノートと契約し『Fuchsia Swing Song』を発表する事によって本格的なテナー奏者としての評価を得た。その後69年から71年にかけてセシル・テイラー・ユニットのアーチー・シェップ、ビル・バロンに次ぐ三人目のテナーとして在団した。そして72年以後はミュージシャンとしてと同様に自宅の広いロフトを改造した「スタジオ・リヴビー」で様々のワークショップ、自主活動を行ないオーガナイザーとしての活動を展開、「ロフト・ジャズ・ムーヴメント」を生みだす最も強力な推進者となったことは良く知られている。テナー、ソプラノ、フルート、ピアノを演奏するマルチ・インストルメント・ミュージシャンで現在最も幅広く活動している自覚的なミュージシャンである。ここでの演奏「Rainbows」はソプラノで行なわれているが、そのスボンティニアスさにおいて彼の水準を超えるものとなっている。ワン・ホーン・トリオのシンプルな編成で展開する演奏はベースのジェローム・ハンターの好演もあって非常に成功していると言えるだろう。

2.「エアー」
 76年結成後、日本のwhynotレーベルでレコーディング・デビューしすでに2枚のアルバムを発表している「Air」は新しいタイプの即興音楽を追求する斬らしいタイプのグループである。知的なセンスとクールなリリシズムを有した「Air」は「Revolutionary Ensemble」「Anthony Braxton」に次ぐ今や人気グループである。このグループはいわば新感覚派的なニュー・ジャズを演奏し非常に透明感のある音楽を生みだしている。そして声楽上の中心はマルチ奏者のヘンリー・スレッジルだが実際の演奏上の中心はいつもフレッド・ホプキンスであるようだ。ここでの「USO DANCE」でもそれは変らない。スレッジルのような息の弱いアルトが私は余り好きでないが、この「Air」の個有性は三者三様のしかし統一されたスペイシーなサウンド展開にあり、そこにこそ新しさがあると思える。そうしてこの「Air」によって代表されるような新しさは「ロフト・ジャズ・シーン」の内に確実にあり「ロフト・ジャズ」のひとつひとつの局面を.良い意味でも悪い意味でも代表していると言える。



■ニューヨークの新しい季節と新しい波

 1964年の10月にあの「ジャズの10月革命」が行なわれ、それ以後のジャズ展開とジャズ変革に決定的な波紋と直接、間接の影響、そしてパワーを生みだした時、ニューヨークはまぎれもなく世界のジャズの最もラディカルで鮮やかでホットな中心であった。今ふり返ってもこの「ジャズの10月革命」をひとつの契機とし、又ひとつの高まりとした〈激しい季節〉はまたとないだろう。64年から、65年にかけてニューヨーク・ジャズ・シーンに登場した先鋭的にして革新的なミュージシャン達は、それ以後の60年代後半と70年代のジャズのイノヴェーションにとってまさに決定的な方向と局面と内実を生み出す役割を果たしたのだった。アルバート・アイラー、マリオン・ブラウン、バートン・グリーン、ファラオ・サンダース、ミルフォード・グレイヴス、ジョゼッピ・ローガン、ラズウェル・ラッド、ビル・ディクソン、サニー・マレイといったミュージシャンはまさにこの〈季節〉の中から登場したのだったし、ポール・ブレイ、サン・ラ、アーチー・シェップ、スティーヴ・レイシーといった人々はこの〈季節〉の中で彼等の音楽の内実と有りようを浮かび上らせていったのだった。そしてこの時期はまたさらに多くのミュージシャンが〈ジャズの10月革命〉の後に続く者として、又そのダイナミズムと創造性の担い手、継承者として全米各地からニューヨークに集まり、そこに真の〈創造的カオス〉とも〈メルティング・ポット(るつぼ)〉とも言うべきクリエイティヴな情況を作り出していったのだった。又この時期にはそこに属するというのではなく、いわば最も活性的な先導者、あるいはシンボリックで又真に革新的な作業を成し続けていた指導者としての4人の巨人ージョン・コルトレーン、エリック・ドルフィー、セシル・テイラー、オーネット・コールマンがこの〈季節〉と〈運動〉の内外にいたのだった。このようにしてかつてない創造的なムーヴメントを形成していったニューヨーク・ジャズ・シーンは、しかし66年をひとつの境い目としてそのダイナミズムを減少させ、或る者はヨーロッパ等の外国へ、或る者はアメリカの各地へという風に活動の場を移し、それと共にニューヨーク・ジャズ・シーンはコマーシャルな場を除いて急速にそのボルテージを落していったのだった。その後のジャズ・シーンとりわけ先鋭的にして創造的なニュー・ジャズ・シーンは、或いはシカゴに或いはヨーロッパにその中心をおいて展開と高まりを見せたとは言え、ニューヨークがヴィヴィッドな中心地となることはなかったと言えよう。
 それからほぼ10年、今やニューヨークは又新しい季節の新しくホットな場としてジャズの最も創造的な中心地となりつつある。いわゆるロフト・ジャズ・シーンとその中心たるミュージシャン群はおよそ1年余りの間にかつてない活況をニューヨークに生み出した。そして彼等は今後のジャズ展開にとって決して見逃し得ないムーヴメントとしての〈新しい季節〉と〈新しい波〉を形成しつつあるのである。そうした意味で今最も輝やかしいスポットをあびているロフト・ジャズだが、このロフト・ジャズにもそれなりの長い歴史と前史がある。〈ジャズの10月革命〉の頃、新しいミュージシャンの活動の中心地がそれまでのジャズ・クラブというよりはコーヒー・ショップであった事はよく知られている。しかし彼等はやがてそのコーヒー・ショップからもしめ出されてゆくようになったり、第一、コーヒー・ショップの演奏ではまるで金にならなく演奏活動継続の窮地に立たされていったのだった。その頃からこれらの革新的にして自覚的をミュージシャン達は広い倉庫や屋根裏を借り、1ドルか2ドルのアドミッションで自主的な演奏活動を始めたのであった。それがいわゆる形態としてのロフト・ジャズのはじまりというべきものであった。だがこの試みにも様々な困難があった。その主要な原因は第1に経営と維持がむずかしかった事と観客が集まらず、又場所も限られていて不便な事などであった。そうして60年代末から70年代はじめはニューヨークにおいてジャズの厳しい時期が続いた。やがて、72年に2人のミュージシャンによる自主的な活動の場として2つのロフトが開かれ、それがきっかけとなるようにしてひとつの道が拓かれていった。オーネット・コールマンによる「アーチスト・ハウス」とサム・リヴァースによる「スタジオ・リヴビー」がそれである。この2つのスペースはこの時期のニューヨークのミュージシャン達にとって殆ど自由に演奏が出来、セッションが出来、他のミュージシャンと出会い、又他のミュージシャンの音楽を体験することの出来たたった2つの場所といっていいものだった。この2つの場所を中心として様々なミュージシャンの交涜が行なわれ、やがてその輪も広まり各地からミュージシャンが立ち寄り、そこで定期的に演奏会やセッションを持つようになった。74年「スタジオ・リヴビー」はニューヨーク市からの援助を受け、より広範にして持続的な括動を展開するようになりたくさんのミュージシャンがそこに集まるようになった。今日の「ロフト・ジャズ」においてこの「スタジオ・リヴビー」の果たした役割は実に大きい。やがてこの「リヴビー」の成功によって「レディス・フォート」「エンヴィロン」「アリズ・アレイ」というそれぞれミュージシャンの自主的運営によるロフトが生まれ、又ロフトの新しいミュージシャンの演奏を提供するスポット「ティンパレス」や週末だけコンサートやワークショップをやるミニ・シアター「ラ・ママ」等が誕生、75年のはじめには新たな活性的情況のひとつの高まりを迎えていった。それまでいわゆるコマーシャルなジャズ・クラブで正当に演奏の出来る場を持つことの出来なかったニューヨークの新しいミュージシャン達やシカゴ、セントルイス、ロスアンゼルスのミュージシャン達もこうした場所で様々に交涜し合い相互的に刺激を与え合い、そうした出会いの場としてのロフトから〈ジャズの新しい波〉と〈新しいミュージシャン群〉が浮かび上ってきたのであった。この創造的な〈交涜〉はやがて一頃アメリカを離れていたり演奏活動を止めていたミュージシャン達をもまき込み、この10年なかった程の規模のムーヴメントが形成されていったのであった。


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