ドキュメンタリー映画「AA」〜音楽批評家・間章 間章を知るために

単行本未収録ライナーノート
V.A.[ワイルドフラワーズ/ニューヨーク・ロフト・ジャズ・セッション5](1977年11月)
日本フォノグラム RJ-7310

ワイルドフラワーズ5 Side One
1. サムシング・クッキン
サニー・マレイ (ds)&ジ・アンタッチャブル・ファクター[デヴィッド・マレイ (ts), バイアード・ランカスター (as, fl), カーン・ジャマル (vib), フレッド・ホプキンス (b)

Side Two
1. チャント
ロスコー・ミッチェル (as), ジェローム・クーパー (per), ドン・モイエ (ds)

1976年5月14〜23日 ニューヨーク、スタジオ・リヴビーにて実況録音
制作:アラン・ダグラス、マイケル・カスクーナ
監修:サム・リヴァース

■2つの演奏とそれが現わす2つの位相

 「ワイルドフラワーズ」5枚の中には20グループ60人以上のミュージシャンによる22の演奏が収められているが、この第5集は他の4枚が皆5つのグループの5つの演奏を収めているのに対し、片面1曲ずつ2つのグループの2つの演奏だけを収めている。それはシリーズを通して考えると例外的なことである。しかし、この第5集を聴いて見ればその例外が何故必要とされたのかを殆んどの人は理解できるに違いない。その理由は実に簡単である。その2つの演奏が極めてすぐれたものだからである。実際様々な興味やドキュメント的位置を離れてその演奏性と密度から考える時この第5集は最もボルテージが高く、傑出した演奏を収めた集中の白眉だと言えるだろう。その「サニー・マレイとアンタッチャブル・ファクター」「ロスコー・ミッチェル・トリオ」の演奏はその音楽的に言って実に見事な対比を成しており、又はっきりとしたそれぞれの位相を生み出している。それは音楽の形式上の在り方においても又内質においても言うことが出来る。サニー・マレイの場合ここでの彼は60年代の過激なドラマーとしての彼、誰よりも強力で誰よりも強い自己主張を行い、誰よりも権力や暴力を有した彼ではない。何よりも第1に“アンサムブル”を心がけようとし何よりも全体のサウンド展開を心がけようとしているマレイがいる。ここにあるのは感性とフィーリングをひとつの基点とし個人の主体性や個性を全体の内の個有を在り方において個々の自己主張を可能とする地平において発揮させてゆこうという“フィーリング”の一致から、共同的な“サウンド”形成への“アンサムブル”の志向がある。一方ロスコー・ミッチェルの演奏をつらぬいているのは先ず何よりも個人の主体性を重んじ、ミュージシャン相互の互い主体性を重んじさらにそのことを通じての関わり合い、働きかけ合いの中で開かれた共同性、自由で自然発生的なアンサムブルへと展開してゆこうという姿勢で、それは各々のミュージシャンが自由に演奏内の位置を変え、自由に関わり合い、一致や同意を目指すのでもなく、ひとつのものへ向けての結束を目指すのでもなく、自発性とそれぞれの感性や理性や音楽へのビジョン、それぞれの行為性をとおして共同の地平へ至ろうとする姿勢である。サニー・マレイとロスコー・ミッチェルの2つの音楽が示すのはこうした“アンサムブル”と“共同性”“グループの演奏展開への関わり合いの在り方”つまり合奏への全くその位相を異とするビジョンと姿勢だと言えるだろう。この2つの姿勢、2つの位相は今日の「ロフト・ジャズ・ムーヴメント」全体においてはっきりした2つの潮流と傾向、音楽志向の異なった局面としてあるように思える。そしてこのことは音楽というものの発展について考える時、それが共同演奏=合奏への最も根底的な問題意識としての“関わり合い”の在り方、“アンサムブル”の在り方、演奏における人間関係の在り方ひいては、音楽を発展してゆこうとする時の最も本質的なビジョンの違いを示すものである。様々のものが共存している「ロフト・シーン」において「ロフト・ジャズ・ムーヴメント」がこれからの音楽地平の創造や未来への音楽の発展にどのように関わっているかを考える時、この“アンサムブル”に対する2つの姿勢、2つのビジョンは真に考えるべき大きな問題としてあると思われる。サニー・マレイとロスコー・ミッチェルの2つのグループの演奏を聴いて私に先ず印象深かったのはこの2つのグループが大きく言ってロフト・ジャズの2つの傾向を代表しているのではないかということがその演奏の場面での“アンサムブル”の内質としてはっきり表われているのを見たような気がしたと言うことである。この2つの傾向と志向のへだたりの中にこそ多様な「ロフト・ジャズ」の現実があるとさえ言えるような気がする。


SIDE ONE
1. サニー・マレイと「アンタッチャブル・ファクター」
 サニー・マレイというニュー・ジャズのドラマーを代表する存在について知らぬ人はいないだろう。彼は60年代のニュー・ジャズの暴力性やアナーキーさ、エネルギーのシンボルとも言える存在だったし、「ジャズの10月革命」期に登場した革新的ミュージシャンを代表する存在の1人でもあった。彼はそしてセシル・テイラー、アルバート・アイラー、アーチー・シュップというジャズ前衛のイノヴュイタ一連との共演を通じての彼のラディカルなドラミングによって我々に〈新しい時代の到来〉をはっきりと知らせた当時のラディカリズム、前衛主義フリー・ジャズの体現者でもあった。そうした彼の鮮やかな姿はたとえばアイラーとの『Spiritual Unity』『Prophecy』『Spirit Rejoice』(ESP)やテイラーとの『At The Cafe Montmartre』(Philips)、それに自身がリーダーである『Sonny's Time Now』(Jihad)、『Sunny Murray』(ESP)、『Big Chief』(仏EMI)、『Sunny Murray』(仏Shandar)、『Homage To Africa』『Sunshine』(仏BYG)といった62年から69年に至る期間にレコーディングされたアルバムを聴くとはっきりと判ることが出来るだろう。これらの諸アルバムによっても彼の果たした重要な役割とその革新的ドラミングのまぎれもない新しさは明らかだが、その彼は70年代に入ってそのブリリアントさとラディカルさを失し、長い低迷の季節をむかえた。実際に彼の近年のプレイを聴いて私はこうした彼の姿にこそ最も強く時の流れと時代の変化を考えさせられたし、又1人のラディカリストがその時代の変化の中でそのラディカリズムを真に維持してゆくことの困難さとひとつの前衛のスピリットなり形が時代を生きぬいてゆくことの苛酷さを身にしみて考えさせられたものであった。ここでの「Someting's Cooking」の彼の演奏を聴いても、そこにかつてのあの輝やかしく、力強いアナーキーな彼の姿や彼の激越にしてダイナミックで超絶的なドラミングを見い出すことは出来ないだろう。確かに彼は変わった。その変わり様には驚くべきものがあるとさえ言えるかも知れない。彼は75年に1曲だけ『New American Musie Vol.1』(Folkways)にレコーディングしているが、この時の演奏とこの『ワイルドフラワーズ』中の演奏を通してうかがい知れるのは彼がはっきりとかっての自分のあのヴァイオレンシャルでラディカルなドラミングとアナーキーな音楽を脱ぎ去ってしまっているという事である。良く聴くと、それ程ドラムのたたき方や機能が変わっているのではないが、決定的にそのサウンドとアクティヴィティーが変わっているのである。この最近のサニー・マレイの演奏はかっての彼と全く対極的に考えられるような拝惰性やデリカシー、センシティヴィティーを浮べるかの音楽位相にあるとさえ言えるのである。そこに弱々しくなったマレイを見るのもやさしくなったマレイを見るのも我々には可能なのだ。そして何より彼が変わったと思えるのは、以前の彼はどのような形ののレープ、どのような演奏においても常にグループと演奏全体のダイナミズムとパワーを領導し、又常に中心にあり続ける形で、まるで“統治”を思わせるような支配力と展開力と共に演奏のフロントに強く打ち出るような演奏位相と位置に身をおいていたが、そこに強烈なエゴと主体を表わしていたが現在のマレイはそうしたパワーや強烈なエゴとヴァイオレンスによる集中攻撃的な演奏というよりは、個々のミュージシャンの主体性や感性を生かし得、それを結びつけようとする“アンサムブル”の音楽をやろうとし、又彼自身の演奏位置は全体の中の1人の主体者であり又それをサポートする存在としてのドラマーの位置へ変わっている。全ての前面と中心から全力、全速力で前進してゆくというのではなく、他のミュージシャンと同じひとつの地平に立ち、それらのミュージシャンと共に演奏を生み出し展開しようとする彼の姿勢を有している。このマレイの演奏内部における“位置”と“関わり方”の変化こそ彼の何よりの変化を教えるものである。私はそこにエネルギー主義、暴力主義をかかえる過激主義から、サウンド主義、感性主義をかかえる穏健主義に転じたマレイを見るのである。この演奏を聴いて私が先ずびっくりしたのはバイヤードランカスターのその見事さとすごさである。デヴィッド・マレイのソロの終りから展開されてゆく彼の演奏には眼をみはるべきものがある。そのサックスの演奏位相の高さと深み、その音色、ダイナミズムの質において彼は今日の最高のアルト奏者の1人(もう1人はこの後に触れるロスコー・ミッチェルである)たる彼の存在を鮮やかに示している。もう1人のテナー、デヴィッド・マレイの演奏も新鮮で良いのだが、バイヤードとくらベたらまるでもうスケールが違ってしまっている。ここでのバイヤードは実に素晴らしい。彼のプレイがこの演奏の位置の多くをしめている。

SIDE TWO
1. ロスコー・ミッチェル
 1940年生れ、37オのロスコーは今日最高のサックス奏者の1人であり今日最高のミュージシャンの1人である。50年代末にオーネット・コールマンの音楽を聴いて彼が示したニュー・ジャズの可能性に啓発されることから自覚的なミュージシャンとしての道を歩き始めた彼は,63年に今や伝説的なリチャード・エイブラムスの「エクスペリメンタル・バンド」にジョセフ・ジャーマンと参加、創造的な即興演奏への作業を始めた。その後の彼は自己の「ロスコー・ミッチェル・アート・アンサムブル」によってシカゴで演奏活動を行い〈新しい世代〉を領導する存在となった。この彼のグループが後に「アート・アンサムブル・オブ・シカゴ」となっている事は良く知られている。AACMにはその中心的メンバーとして創立から参加、『Sound』(Delmark)『Conglipsious』(Nessa)を発表してすでにそのころから確たる位置を獲得していた。彼の「AEC」での演奏活動は誰一人知らぬところのない程の鮮やかなものだが、この「AEC」においてもグループの最も重要な中心を成しているのがロスコーであった。そうした「AEC」の高みは『People In Sorrow』(EMI)『BAPTISM』(Atlantic)に聴く事が出来る。特にここで注記したいのは75年に彼が発表したソロ・アルバム『Solo Saxophone Concerts』(Sackvill)で、このアルバムによって彼は誰にも比すことの出来ないオリジナルで個有な最高のサックス奏者としての存在を我々の前に決定づけたのであった。彼のサックス演奏はそのテクニック、表現力、意識の高さ、演奏性のあらゆる意味において最高の域にある。特に彼のアルト・プレイは今日最も先鋭的なそして本格的なものであり比類ない境地に達している。ここでの演奏はドン・モイエ、ジュローム・クーパーというそれぞれAACM出身の二人のドラマーのプレイも実にしなやかで素晴らしいがやはり最高のアルト奏者としてのロスコーの見事さがなによりも強烈で鮮やかだと言えるだろう。前半の様々に変容し豊かな長いリフも彼の信じがたいテクニックと演奏力を示して素晴らしいが、特に後半のフリー・インプロビゼーションにおける彼の演奏はアルトによる即興演奏の極みとも言うべき地平に達した驚くべきもので、いかなる意味においても表面的な激しさやエモーションによるとらわれを有さないスボンティニアスなものである。A面のバイヤード・ランカスターの演奏とロスコーの演奏、この今日最高のアルト奏者の演奏をこうして聴けるということは我々にとって実に貴重な体験だ。この二人の見事な演奏によってその最後をかぎる本シリーズも、だから実に幸いであると言えるだろう。



■「ロフト・ジャズ・ムーヴメント」における古きものと新しきもの

 1964年から66年の「ジャズの10月革命」がそれぞれのジャズ変革への意志と自由への渇望、抑圧的なものへの反逆と反抗、そして既成のジャズの閉鎖性の破壊への欲望につらぬかれた個々人の情況の中での共闘と組織化を目指した高まりであり、黒人の自立意識と主体性の確立、また切迫した政治情況を背景とし又内実とした過激で先鋭的なものであったのに対して、75年から今日までの「ロフト・ジャズ・ムーヴメント」は変革や反逆への戦いと言うより、より現実に根ざした建設的で具体的な和解や結合、統合への集団創造意志の現われとして見る事が出来る。そこでは個人のエモーションの激しさや強烈な自己主張、反逆的欲望というものよりも、より確かなものを築き上げ和する力によって共同の関わりが相互的な発展として可能なような音楽上のフォームやアンサムブルそしてそうした事を可能とする場や基盤を作り出そうとする傾向と関心が強く反映されている。つまり今日の「ロフト・ジャズ・ムーヴメント」はより具体的で現実的な或る形や共同性の在り方の達成へ向う非常に客観的な動勢として考えられる。これまでに発表されたいわゆる「ロフト・シーン」のミュージシャンのアルバムをとおして感じる事は彼等のすべては自己の音楽の具体的な在り方つまりスタイルやフォームや形式というものに強い関心を示し、自己において必然的なアンサムブルやサウンドを独自なかたちの上で創り出してゆこうという現実的な姿勢を持っているという事である。そこには強烈な自意識と強烈なエゴイズムを抱えそれらと斗いながら又ジャズの規制性と斗いながら自己をぬいてゆくという「個」が浮び上るというよりは、自分の音楽観、ヴィジョン、個性、表現力をグループを基磯とした集団的な関わりの中で実現し高めてゆこうという傾向が強く表われている。たとえばオリヴァー・レイクでも良い、ハミエット・ブルイエットでも良い、又、デヴィッド・マレイ、ジュリアス・ヘンペル、「エアー」でも良い、彼等の音楽を考えてみた時、それがそれぞれに皆たとえそれが多様で新しくとも開かれていようとも或る具体的なスタイルを持ち、具体的な音楽上の方法論を持っているという事はすぐに了解されよう。そしてそういう傾向を或る人達は「後退」であり「保守的」であると指てきしているのは事実である。そして又そうした傾向とその表われをひとつの時代的必然だと考える人々もいる。そしてさらには60年代のラディカリズム=過激主義は70年代の今日にはそのまま通用できない。それが70年代の今日に真に引きつがれ発展されるとしたらそれはまた新たな形、新たなコンテキスト、新たな方法論においてでしかないし、それは今日の時代と現実に根ざし又関わりを持った在り方で再創造されなければならないだろう、という人々もいる。私の考えるにはこれらの意見のすべてが正しいと思う。そして私は今日の「ロフト・ジャズ」の提示するものをただその確かさと形においてではなく多様さと内質において、ただ多様さと内質においでではなくその確かさと形において見続けなければいけないようにも思う。そして常に現在の音楽の有りようは未来のこれからの音楽はどうあるか、いかにあるべきかという意識を持って、又同時にその現在の音楽の有りようを現実的によく見つめることによって問われるべきだと考える。「ロフト・ジャズ・ムーヴメント」に見ることの出来る現われは実に多様なもののからみ合い、共存として先ずある。そこには60年代のフリー・ジャズがそのまま形としてただ生き残っているというものもあるし、70年代に入ってからのニュー・ファンクやクロスオーバーとの関わりの内に見い出せるポップ的な傾向もアフロ・アメリカンの今日の問題意識をするどく反映させたものもある。そして確かにかつて「サード・ストリーム・ミュージック」と言われてあった音楽の傾向と同じように西洋音楽文化とジャズのアルケなものとの融合化の試みや、もっと覚めて知的なかつての「クール・ジャズ」的現われもある。そこにはまさに様々のものがあるのだ。「ロフト・シーン」にある古きものは確かに「ジャズ的なもの」「よりジャズらしいもの」を志向する傾向の中に確かにあるし、ジャズへの固定観念を変える事なしにただ表面的に「新しさ」を装っている現われのなかにもある。たとえば現在の「ロフト・ジャズ・ムーヴメント」がかっての「ジャズの10月革命」のような「創造的混沌」を生み出しているかという問いかけがある。私はその間いに答えるに性急であってはならないと思うが、それでももし答えるとしたら「同じようにはない、時代が違うのだから」と答えるしかないように思う。しかし私は「ロフト・ジャズ」が真に革新的な音楽地平をまだ生み出していないことを知っていると共にまた「ロフト・ジャズ」の新しさ、新さの局面についても知っている。それは「ロフト・シーン」のミュージシャン達が、結合と融合と建設への本当の切実さと必然へ少しずつながら向っているという事である。文化や芸術や一切の人間活動は或る時、結びつき合い統合を目指し、或る時は互いに反撥、敵対し合い、バラバラになりながら、つまり集中と拡散、統合と分裂をくり返しながらそのバネとダイナミズムによってひとつのプロセスをゆきそのプロセスの中でそれ自らを変化し高めてゆくということの真理は、この75年から77年現在までの「ロフト・ジャズ・ムーヴメント」においても生きていると思うからである。そして私はこの「ロフト・ジャズ・ムーヴメント」も又さらなる未知への発展と創造へのひとつのプロセスとしてのリアリティーと必然としてあると思うのである。このムーヴメントが革命的なムーヴメントではないとしても、それがまさに現実的な様々の人間達の関わり合い、働きかけ合いから生み出されたものであってみれば、そして又それが異なった体験と欲求と異なったビジョンのそれなりのせめぎ合いとしての「可能性へのるつぼ」としてあるのであってみれば、私はこの「ロフト・ジャズ・ムーヴメント」から眼をそらしては一切のジャズの可能性について発言できないだろう。「ロフト・ジャズ・ムーヴメント」の新しきものそれはまさに様々の人間がそこで激しく出会い、出会い続けているし、その出会いが新しいかたちの中で試めされつつあるというまさにその事なのだ。そして又、それこそがこの「ロフト・ジャズ・ムーヴメント」の現実的な可能性でもあろだろう。その可能性はまさに様々に多様で異なったもののこだまし合う中にある。そしてそうしたこだまはいつも常に潜在的にして可能性としての新しさのすみかなのだ。独断し続け、個々に判断し続ける現象にだけとらわれたせまい知性と感性は、いかにとぎすまされたところで、そのこだまを聴くことができない。

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