ドキュメンタリー映画「AA」〜音楽批評家・間章 間章を知るために

単行本未収録ライナーノート
V.A[越後の瞽女唄](1975年5月)
CBSソニー SODZ-1〜3

越後の瞽女唄 【LP1】
Side A
1. 門付唄(かわいがらんせ・こうといな・雨降り唄)
2. 新保広大寺
3. 地蔵和讃
4. 話し松坂
Side B
1. 松前(越後追分)
2. 磯節
3. 庄内4. 県づくし

【LP2】
Side A
1. 葛の葉子別れ
Side B
1. 三人心中口説き
2. へそ穴口説き

【LP3】
Side A
1. 門付唄
2. 葛の葉子別れ
Side B
1. 松前(越後追分)
2. 磯節
3. 飯坂小唄
4. 佐渡おけさ

*高田瞽女(録音:昭和48年3月7日〜9日)
杉本キクエ, 五十嵐シズ, 難波コトミ

*長岡瞽女(録音:昭和48年3月10日〜11日)
中静ミサ, 金子セキ, 加藤イサ

録音:1973年3月7日〜11日
エンジニア:
監修:斎藤真一(画・題字)
構成:間章

来たよで戸がなる 出てみりゃ風だよ

●瞽女への小さく遠い旅
 瞽女という言葉が私になつかしさと共に立ち現われてくるようになってから、もうどれくらいになっただろうか。いずれにせよそれはそんなに以前の事ではない。新潟で生れ育った私の記憶の中には瞽女の三味や唄もいろいろな旅芸人や変ったおこもさんや紙芝居と共にたしかにあったはずではあった。東京へ出て来てからも時々新潟へは帰るのであるが、いつのまにかそれらのまぶしい幼年の記憶の中の人々は消え去ってしまっていて、私はただビルの影の小さなお寺のへいや暗い路地に私自身のおぼろな記憶や思いを映して通り過ぎてしまうだけである。あの人達はいったいどこへ行ったのだろうという私の小さなそして素朴な疑問は、果てない忘却のうつわである私の頭の中でひっそりとしたルフランをなぞっていつまでもただ残っている。いつのまにか私が音楽の評論を書いたり小さな文を書いたりしていくようになってからというもの私はありとあらゆる音と言葉と現象のはざまを生きてきたが、私はいつからか私自身が記憶の総体からも遠くはなれていることに気づくようになった。私自身の記憶への回帰それは私にとってセンチメンタルな事でもロマンチックな事でもなく、まさに私と音と言葉の関係を私にまつわり私がいる場所にまつわり私へと向ってゆくことそのものへ近ずきたいという気持ちからなのだが、ただ思い出すことは存ることそのものと同じに私を寒くさせ続けるだけであった。
 瞽女とめぐり合った時、私が先ず感じたことそれは瞽女のめくるめくようなはれやかさであった。私はしばらくの間というものそれが何か信じがたい事に思えた。私が出会ったもの、私が瞽女そのものを通じて見たものは、決して歴史書や記録や地方文化人の資料の中にはない生き生きとした生きることそれ自体の明るさとも言うべきものであった。そしてそれは何かしら我々や我々のまわりの物質文明というものを危弱なものに思わせた。
 盲目の放浪の女旅芸人、男とまじわることも家庭を持つこともなく未婚を生きた辺境の人々、瞽女ということで我々が作り上げて来た瞽女のイメージというものがなにかしら、権力的固定的な強制によって作られたものに思え、私はそこにこの時代の頽廃と危険を感じた程であった。いつの時代でもその時の権力意識的体制というものがその時代の異端や辺境を一部正統や正系に組み込んでゆくことで体制を保持し守って来たように、いつからか瞽女を文化の暗闇にしいたげられて来た一異端の存在としてしまうことで瞽女自体の存在を安全で水のようなものしてしまおうとするかのようでさえもある。
 しかし瞽女はあくまでも生き生きとした存在である。今回同行した斉藤真一氏がいみじくも言うように“瞽女は青空と闇をいつも一しょに見つめている”。そして瞽女はさらに常に大地をふみしめている。瞽女唄はそして決して瞽女の生活や生き方から切りはなして音楽として取り出すことの出来ないものである。瞽女唄の素晴らしさはその事の内につきるものなのだ。瞽女唄は他の伝統音楽や民謡が様式化ということでなくしていった生きようそのものの中に花開いている。
 彼女達の唄の中にこそ私はひろやかなそしてのびやかなしかもしっかりとその場所を持つ言葉と音を確かめることができるように思う。そしてその事を通じて私は何か決定的に重要なものを瞽女達に教えられたのだった。斉藤真一氏と瞽女達のやさしい関係にしても、私はそうした事の内にはっきりと見てとれる。長い録音の時間中に斉藤氏が示めした思いやりはどの地点でも単なるセンチメンタリズムや個我の感情を超えているものであった。彼の十年余にわたる「越後瞽女日記」と「瞽女ー盲目の旅芸人」の仕事は多くの人々にすでに認められた真直の労作ではあるが、私はその上にでも彼の仕事をこの“やさしい関係”の故にさらに高く評価したいと思う。彼の果たした仕事は歴史家や瞽女研究者のさらには記録家の仕事を超えた所でまさに評価されるものなのだ。
 この取材旅行の間中私はいつもくり返し一つの事を考えていた。それは現在瞽女は高田と長岡と他の数人しか残っていず、もう今現存している瞽女さん達で瞽女も瞽女唄も絶えるのだけれど、亡んでゆくのは本当は瞽女でも瞽女唄でもなく、我々の都市や文明のほうなのではないかということである。我々が瞽女の存在を安易に我々の時代の例外としてかたずけ、亡んでゆくものとして守ろうなどと考えてゆくこと自体が我々の時代の最もまずしくしかも危険なことであり、人類史の上では文明こそが例外であり、亡んでしかるべきものなのかも知れないということである。
 よく外国を旅してきた人間が、アフリカやインドや南米の諸国のみじめさを口にし、我々の文明よりも何十年も遅れているということを力説するが、インドやアフリカのある国より遅れているのは我々の文明の方なのかもしれないのである。文明や文化と口にし瞽女の存在を通じて文化論を展開するというのはいつも悪しき知識人の手口だが、私は瞽女の唄にふれてゆく内に瞽女の存在が恐くなってゆくことから我々のこの時代の明証主義的な世界の危弱さについて思わざるを得なかった。瞽女の恐さ、それは瞽女や瞽女唄を音楽や歌曲や伝統音楽として取り出すことの不可能の恐さであり、決して感情移入や安手の好奇心で瞽女の世界にふみ込んでゆくことのできない恐さであった。そしてさらに恐いのはあの瞽女の明るさとふてぶてしさとやさしさなのである。これらこそが技術や厳密さや個人の芸では計り切れない瞽女の唄のなつかしたの因なのだ。

●高田瞽女と長岡瞽女
 今回録音するにあたって斉藤真一氏や私が第一に考えたことは、単なる記録や資料としてのレコードを出したくはないということだった、瞽女のレコードを出すならば出来るだけ瞽女の生き方のようなものを主に斉藤真一氏がやさしさと幻想と悲しみとを持って絵によって表現したように、ナイーブに感じとれるレコードにしたいと考えた。
 とにかく伝統音楽や民謡の世界が研究主義のように固くるしくなることをさけて瞽女の存在を資料ではなく瞽女自身の唄によってとらえられるようにする事が一番重要なことなのであった。
 録音にあたっては高田瞽女も長岡瞽女も我々以上にタフで次から次と唄が出て来ておどろく程でもあった。
 高田と長岡の瞽女をくらべて言えることは高田の瞽女の方がより洗練されていてナイーブであり、長岡の瞽女はそれに比してもっと土くさく感じられることであった。
 「葛の葉子別れ」や「松前」は双方ともレパートリーとするものであるがこの二つの唄を聞けば長岡と高田の違いがよくわかると思われる。特に門付け唄に関していうならば高田の門付け唄がどこか悲しいながらもはなやいでいるのにくらべ長岡はその点ではどこか異質なものに思われる。特にそうした違いと高田、長岡の瞽女の最も好むものとして出来るだけ同じ本唄から来ているものでも録音することにした。
 私はこの取材旅行の中でも特に高田と長岡の瞽女の「松前」を聞け、しかも録音出来たことをうれしく思っている。現在この「松前」を唄える人はこの瞽女さん達を除いて殆んどないと思われるが、そうした貴重さ以上にこの「松前」の内に私は最も瞽女が百姓や地元の人々とつながっていたことのかけがえのなさを感ずる。
 旅を終えてから、私は歌詞の採録もあってくり返しくり返しテープを聞いた。そして今思うことは瞽女と共に十数年も旅した斉藤真一氏ならばともかく、瞽女の何かを通して瞽女について考え教えられて来たこの私の瞽女への旅はまだ始まったばかりだということである。西洋的な観念論で音楽について考えることからはいつも遠くありたいと思う私も、瞽女さんのはるかなのびやかさを私自身のはれやかさとして見てゆくにはもっとどこかしら旅し続けねばならないと思うのである。それは多分地図の上でもこの大地の上でもないのかも知れないが、私と私の言葉と音との関係の回復への旅ではあるだろう。
 私はそしていつか過した私の光景をただ失くしたものとしてまぶしく思い出すだけではなく見つめ続けることが出来るかもしれない。
 “来たよで戸がなる
  出てみりゃ風だよ”
 という瞽女唄の一節のように、出てみたとき出会うのがいつも風だけだったとしても、ゆくりなく私は瞽女と出会うことによって見始めた何かをさらに見い出してゆこうと思い続けている。
 そうした私にとってこの瞽女の唄達がどこかで音や唄との新らしい未知の関係をひらいてくれるかも知れないという未明は一つの可能性として寒くはあるがやさしく存在し続けるのである。

after[AA](c)2006 after AA