ドキュメンタリー映画「AA」〜音楽批評家・間章 間章を知るために

単行本未収録原稿
“意味”の権力とそして漂着物と排泄物のさなかで
(『ジャズ』76年8月〜「ディスク・イン・ザ・ワールド」時評)

 およそ“レコード批評”というジャンルと形式程曖昧でいいかげんで安全なジャンルと形式はまたとないだろう。そこではありとあらゆる愚昧さと驕慢さと無節操さが“虚栄の市”ならぬ“幻影の市”をくりひろげている。しかしまたその“レコード時評”なるものがひとつの権力構造を有し具体的な権力を持っている事も事実である。“レコード時評”はそしてこのふたつの風土の仲で、おのれの生存のコンテキストを知らず“空ろな祭典”をくりひろげているのである。又“レコード情報”という奇怪なカテゴリィーがある。非常に特権的な一方的な情報の制度の中にあるこの“レコード情報”なるものは深く、意味するものと意味されるものの間をさ迷いながら、オブジェとしてのレコードとその内容なるもの、そして実性と虚性の間にあらゆるものをすれ違わせたまま、又それ自体の仮死的な身ぶりと虚構性の中で、この現実の資本の制度の機能主義と実用主義の網の目の中にそれ自体をからめとられている。では本質これらのものを内にかっている“レコード・レビュー”というものが、己れ自体の実勢として見出され、現実の制度との間に一線を画し、その本来的な相貌の故に位置づけられまた確立される可能性がどのようにしてあるのかとういう時、本当に問題とされねばならないのは“レコード・レビュー”の本性とされる情報の量や質、ベクトルそして“レコード・レビュー”が暗に持つ権力性や機能性、意味性が相対的・力学的な構図と関与を離れて、新たなるコンテキストへ向けて、変更され、解体され、もうひとつの風土としてのそれ自体の存在性を見出さなくてはならないという事なのだ。
 そして恐らく“レコード・レビュー”の解放さえもが、ありとあらゆる他者なる者同士の関係性と運動性の創成と組織化なくしてあり得ないということこそが示されるだろう。そして“レコード”はその商品性とペダンティックな衣類、権力が付与する意味なるものをはぎ取られて、誰が何の為めにそれを欲し、それを生み、それをどこへ向けようとしているのかこそが“裸形と白日”のものにさらされなければならないだろう。そしてその一方にはその“レコード”の持つ外被性と内実なるものを見きわめ、限りなく読みとり、読み直す作業の持続こそが要求され、我々一人一人の固有の又は共同の言表(エノンセ)や連続性やコンテキストの上に置換されねばならないのである。そしてまさに永久運動ならぬ資本家のベルトコンベアに載って次々と排出−生産される無数のレコード群のその表われと一枚一枚の個別のレコードの相をこそ断差し、それぞれのものが意味づけられる場面にこそ限りなく検証の視線を向け、それがどのようなことを表わし、どのようなシステムであり、又あらねばならないのかをこそ新たに見出し続けねばならないのである。我々に課されたこの二重の作業の交差する所に“レコード”はかろうじて、その存在の意義を発見するかも知れない。レコード産業の新段階としての帝国主義的確立がはかられている現在、その制度とシステムを読みとり、その意味の体系を解放すること以外に“レコード”が表現者と受容者との間に固定化してしまった関係を解き放つ手だてはないだろうし、レコードが当り前のものとして受取られ、複製技術時代の先制下に“統治者”としての影を帯びてしまっていることからまぬがれる事は出来ないであろう。
 私はささやかな次のような出発のしかたをしたいと考えている。つまり私“達”がすでにかってしまっている“レコード・レビュー”なる形式を負性としてとらえる事から、単に新しい形式やスタイルを目指すのではなくて、まさしく負性として自覚しその負の構造を細部にわたって検証しながら、“レビューアー”なるエリート性、特権性、情報提供者性を批判的に壊してゆき、私“達”のディスクールとコンテキストの領野を創り出し、一方的な機能性から少しでもずらし、他者との差異によって私“達”の認識・判断・意味付与の権力性を照らし出し私“達”それぞれの特権性を、異なるものへと導き、差異によって、可能性としての未知のディスクールとコンテキストの所在を浮び上がらせてゆくことである。
 具体的には、その方法はこれからの作業化にあるのであり、その作業はいささかもアブストラクティブではなく具体的に成されねばならないのである。“レビューアー”として一人ではなく二人(間、竹田)が用意されたのもそのひとつの手だてであるし、この“時評”の頁がもうけられたのもその為めである。そしていずれは、読者からの抗議や質問や異論をもここで取り上げてゆくつもりだし、レコード店や「ジャズ」編集部、そしてこのコーナーを閉じたものとしない為めの「レコードを共に聴く場と時間」を用意しながら、それらのすべてをまき込んだ形で“関係の領野”をこそ生み出し互いが互いにとって決して安全ではない関係の場をつくってゆきたいと考えている。そしてその為めに先ず、この時評の頁を固定化せず、解放することを目指したいと思っている。

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