反ユートピアの原像〜オリバー・レイクとロフト・ジャズ・ムーヴメントをめぐって
(『ジャズ』77年1月)
1.「ニューヨーク革命計画」
ニューヨークへもう一度行こうと思いながら、とうとうもうひとつの冬を向かえてしまった。
今年の春、冬から春へ春から冬へと一日一日がとまどうようにしてゆきつ戻りつしながら、やがてまばたくように突然夏へ落ちてゆく、そんな時期に私はニューヨークにいた。それからもう半年以上の時がたっているわけだが、私は今でも私がニューヨークで感じた事の何か判然とはしないながらも確かなものとしてあるひとつの受感をいだき続けたままだ。複雑に入り細み、入り混じったその受感をまさしく総体としていだいたまま、私は時として自分が或るとらえようもないまばゆさのなかにあり、又時としていい知れぬ寒さとともにあることを発見してしまう。
そのまばゆさと寒さは私の内からやってくる。その奇妙に矛盾している何か陰りのようなものは私の<体験>の底からやって来るようだ。
私はニューヨークにいた時もそして今も或る種の当惑のようなものと共にある。
そしてそれは私にも不思議なことなのだが一種の熱い思いとシニカルさとしてあるようなのだ。
ニューヨーク。それは私にとってずっと長い間どこよりも生々しいひとつの“現場”でありそれと同時にまばゆいばかりの巨大なカオスであり廃墟であった。
だから最初にニューヨークに到着して見上げた空は私にいい知れぬなつかしさを覚えさせたものだ。
アラン・ロブグリエの『ニューヨーク革命計画」という小説がある。私にとってはロブグリエの作品の中で『去年マリンエバートで』のシナリオと並んで最も好きな小説である。その小説のなかに私がかいま見たものは、途方もない正と負のエネルギーの混在した蠢くカオスとしてのニューヨークに対するロブグリエのこの上ない愛着であり、又それと同時にふくれ上がった憎悪といったものだった。思えば私もずっと長い年月相反する二つのヴィジョンとそのさなかにあるルサンチマンを通じてニューヨークを“視”続けてきたものだ。ニューヨークへ旅をしてそして帰ってから『ニューヨーク革命計画』という小説を書いたロブグリエのいらだちに似たオブセッションに、だから私は常ならぬ親近感をいだいたものだった。オマージュとルサンチマンの入り混じった奇妙な状態。それは言ってみれば現実でありながら同時に幻視でもあるといった、たとえようもないニューヨークという存在への唯ひとつの持ち得る正当な情動であり、そうしたものの中でまさに迷路にたたずむように非連続の所作をなすことこそ唯一の態度なのではないかと思ってみたりもする。
「ニューヨークは不思議な街だ。それはいつも処女のように初々しいかと思えば、うす汚れた淫売のように、毒づいている。あらゆる新鮮な今生まれたもののような、きらめきに満たされているかと思えば、ごみ屑の山のように腐臭を放っている。ひとつの精算の力の象徴のように見えるかと思えば、破壊の後の世界の象徴のようにも見える。そしてただひとつだけはっきりしていること、それは真昼にも真夜中にも、大通りでも裏通りでも新しいポジティブとネガティブのエネルギーがひしめいていてそれが何かを進め、変え続けているということだ。」と或るニューヨークの詩人が私に言った。「いささか詩的過ぎますね。私にはニューヨークはいつも何か得体の知れない破滅的な出来事の『前夜』のようであり、『翌日』のようであり、そして同時に『真最中』のようであるというような気がします。ジャスパー・ジョーンズの『白』がニューヨークに置かないと全く似合わないのと同じように、というよりジョーンズの『白』の外側にニューヨークがあるというのがすごいひとつの意味だと思うのですが……私には希望も絶望もニューヨークには似合わないし、ニューヨークにはないような気がします。なにせ人類が途方もない労力と生産力と消費力で築き上げたもうひとつのジャングルとしての都市の現すもののすべてがこのニューヨークにはありますから。それはポエジーをことごとく拒否するものように思えます。」
するとその六十がらみのびっこの詩人は言ったものだ。
「ポエジーというものは始めから廃墟のなかで言葉を探すような欠落から生まれたものなのさ。だからポエジーにはすでにポエジーの否定が含まれている。ニューヨークは文明のデカダンスでも未来でもなんでもない。すべてのもののかけらから出来ているひとつの夢のような現実なんだ。そしてそれはいつもにぎやかな『廃墟』なのさ。だれが何を探そうとおかまいなしさ。」
その詩人はバーボンのグラスを傾ける。
私はすでに酔っぱらってしまっていた。
レイク、ロウ、マレイ、ウエアの四人のサックス奏者を見る時、そこに<ロフト・ジャズ>の領野がひらけ具体的のどのようなものとしてあるかが判るだろう。
この四者が四様の形で登場し、四様の位置にあるというこのこと程<ロフト・ジャズ>なるものの多様なダイナミズムとムーヴメントを教えるものはない。もちろん<ロフト>はこの四者を超えてひろいものであり、彼等によってだけ代表されるものではない。としても、この四人のサックスが<ロフト・ジャズ>を照らし出すべき存在であることも確かなのだ。
しかしサックスの変革と<新しい位相>という意味では彼等よりも今日的なミュージシャン達がいる。それは例えばミルフォード・グレイヴスと共に演奏活動しているヒュー・グローバー(ts)やアーサー・ドイル(as)である。
特にアーサー・ドイルのノー・フレージングのプレイはこれからのジャズを考えるに非常に示唆的なものと言えるラディカルな演奏である。
それはロフトの深い所で、本当に自主的な活動を持続しているプレイヤー群の中にもケン・シモンやマイク・ホワイトゲージのようなサックス・プレイヤーもいる。
又最近ニューヨークへ戻った友人の土取君からの手紙では「スピリット」というグループが登場してそのグループのテナー奏者、デヴィッド・T・ウィリアムス(三人目のデヴィッドだ)が衝撃的に出現し注目を集め始めているという。
いずれにせよ<ロフト・ジャズ>という形で現われた様々なムーヴメントを<ロフト・ジャズ>に押し込めてしまう訳にはいかない。それはあくまで動きつつゆれ動きつつあり変化しつつある<現在>なのだ。安易に了解したり納得したりする以前にあくことない注視こそがそそがれねばならないだろう。
そしてオリバー・レイクという一人のサックスの重要さもこれから本当の姿を現わすに違いない。オリバー・レイク論やロフト・ジャズ論が用意されるのはそのずっと先で良いはずだ。今はただ我々の、その表面だけを迷わないような見つめる厳しい視線(まなざし)こそが要求されるべきである。
4. 反ユートピアの原像/ロフト・ジャズへの問題提起
真のムーヴメントが形成され、真の運動とアクティヴィティや変革が、現在<ロフト・ジャズ>と呼ばれているジャズの現われによって成されるのは、これからだと言えるだろう。日本のジャズ・ジャーナリズムにおける<ロフト・ジャズ>のクローズ・アップが永遠に<ジャズの十月革命>にも<シカゴ・アヴァンギャルド・ムーヴメント>にも遅れた者達のコマーシャリズム化としての先もの買いに終ってはならないような場所でこそ<ロフト・ジャズ>は厳しく見つめられなくてはならないのだ。
短い間とはいえ貪欲にロフトを歩きまわり、ロフトのジャズを聴き続けてきた私にはことさらにそう思う。
そしてそのような私であってみればこそ、ロフト・ジャズに或る種の危惧と批判めいた問題意識を持っている。
ここではこと細かにそれを披露する余裕もスペースもないが、幾つかまとめてみよう。
1 ジャズのラディカリズムとしての変革の方向とその具体的な在りかがロフトのなかではまだ見えないということ。
2 現在の<ロフト・ジャズ・ムーヴメント>が<ジャズの十月革命>そのものとそれ以後の真にイノヴェーショナルな活動に関わっているところに<ロフト・ジャズ>の現在の意味があるはずなのだが、そうした闘いがまだ具体化されてはいないということ。
3 <ロフト・ジャズ>、それ自体は多様なのだが、その現れ自体に一種の企画化・パターン化の風潮が見られること、又そうした企画化を打ち破る力がどのように用意されねばならないのかが、まだ自覚的には見つけられていないということ。
4 かつての<サード・ストリーム>のように見かけは革新的で非順応的な、しかし一歩まちがえば形式化・固定化といった反動的性格をかかえたような音楽の傾向があること。
5 またそれと反対に、一部では70年以後の数人の闘い手が克服したはずのパワー主義、肉体主義が可能性とともに抑圧性も含みながら再現しているということ。
6 また何らの自覚やリアライゼーションも通さない「形式的なフリー・ジャズ」が根強く残って、風化しつつありながらも再浮上して来ていること。
7 <ロフト・ジャズ>全体において、60年代にきたえられたブラック・ニヒリズムは、或る意味で後退しているか、背後に回されているか、その性格を水増しされているか、潜在化されているかしていること。
8 リーダーやオルガナイザーやイデオローグが或る特定の個人として現われる必要はないが、まだ具体的な指導論や組織論や運動論、革命論が準備されてはいず、またそれらの所在もはっきりしていないこと。
9 一部の<ロフト・シーン>は<フリー>の今日的な<新主流派>のような人々によって領働され、コマーシャリズム化の危機を有しているということ。
10 ロフトの状況は<十月革命>時のような創造的カオスを現在の<ロフト・ジャズ・シーン>は生み出していず、多様さのままどこかで本当に連合・連帯するという動きもないまま、表象的なレベルでの<調和>と<均衡>を許しているようにしてあるということ。
11 ジャズの階級闘争の位相が見えないところでムーヴメントだけが浮いているかの感があること。
12 <与えられた>平和と自由と場所を許すかのようにして、<ロフト・ジャズ>が或る種の日和見主義と繁栄を買って<音楽>や<ロフト>の内側で安住していること。
13 ジャズの宿命的な闘いである音楽の解放、アイデンティティー追求か、アイデンティティー破壊かの局面が<ロフト>には刻み込まれていないこと。
14 <ロフト・ジャズ>がトータルな運動の動勢としてあるのではなく、ヴィレッジ、ハーレム、ブロンクス、又ヴィレッジの中でも幾つかに、分裂的にあり、決して統合などされていなく、<体制の分断工作(あらゆるレベルの)>を容認していること。又<ロフト・ジャズ>が幾つかの地域に分かれ、相互間のコミュニケイト、コラボレイションがほんの一部でしかはかられていないこと。
15 可能態としてのダイナミズムがその有効な出口としての場をまだ見つけていず、<ロフト・ジャズ>がそれをすべて導くようなレベルにまで達していないところでまだ部分的な<領域>に過ぎない形のままにとどまっていること。
以上思いつくまま現在の<ロフト・ジャズ>の在りようの問題点といったものをアトランダムにあげてみた。
運動がより自覚的に押し進められた行為者が己れを組織し、自らとジャズの現在と未来にとっての闘いの位相を見い出しそれを選びとる時こそ<ロフト・ジャズ>はロフト・ジャズを超えて現前するはずだ、というのが私の<ロフト・ジャズ>を考え始めて以来変わらぬひとつの思いであった。
私は<ロフト・ジャズ・ムーヴメント>に可能性を見るからこそ、そこにこの十年来始めてのジャズの<戦場>と<現場>を見るからこそ、<ロフト>のすべてを厳しく見つめなければならないと思っている。
すでに資本主義の手先たる、体制の犬たち、音楽産業が<ろふと・じゃず>を支配商品化しようと蠢いている。その事が事実となっている今だからこそ、我々は<ロフト・ジャズ>を形骸化した殺したり終息させたりしない為に<ロフト・ジャズ>を当然のものとして、与えられたものとしてではなく、自らがジャズをとらえ、ジャズを考える上で自らによって見いだす必要にせまられている。
だからこそあらゆるレコード、ニュース、情報の向こう側をこそ見つめねばならない。
何かのレッテルのように投げ出された<ロフト・ジャズ>なるものの表面を剥取った時こそ、その裏に真のジャズの現在とジャズのアクチュアルな存在の領野、そこにゆれ動く複数のムーヴメントがある。
それはおそらく醒めたものとしてひらける何ものかだ。
私はそれを今、かりそめに「反ユートピアの原像」と呼んでみたい気がする。
ジャズはユートピアの幻を排し、より確かでより苛烈な生々しい地平にこそ向かっている。そこには希望や夢というような形での幸せなヴィジョンは一切ないだろう。というのはジャズの真のアクティヴティーは何をかくそう「ジャズの解放」と「音楽の解放」にこそ向かうはずだからだ。それだけは確かなことだ。
ジャズが己れの幸せな未来とヴィジョンを捨て去り、よりむき出された現実とより可能な現在との闘いに身をのり出す所にしか、ジャズは己れの未来を用意できない。
ユートピアとは、どこにもない場所、理想の場のことである。ジャズが闘いの場であり、闘いによってしかジャズたり得ない以上、ジャズは理想主義と同時に、ありとあらゆるユートピアを否定し、さらに全ての現実によって験されねばならない。
ユートピア主義は敵と体制、制度の用意し与える夢を打ち破る真の力とはなり得ないのだ。現在のニューヨークにあるジャズのムーヴメントはまさしくこのユートピア否定の前状況的カオス、前カオスの内に在り、理想主義によるのではない闘いをめざして「反ユートピア」のオリジンの回りをめぐっている。
そこにこそ<ロフト・ジャズ>なるものの本当の今日的な意義がある。
しかしジャズは<カオス>へまいもどろうとしている。だがその<カオス>は一度見た<カオス>とはことごとくにおいて内景を異にする<カオス>であるはずだ。
そして<カオス>へ至った時、そこで戦闘者とフリーク(異形者)が登場する。まさに無数の形で。<ロフト・ジャズ>はその前状況であり、すでに始まっているものの過程のさ中の、いわば途上の現前というべきものなのである。
それが本当のムーヴメントたり得たる為には、先行する闘いを闘った多くのイノヴェイターからあらゆることを学ぶとしても、彼等の辿った道をなぞってしまうことは許されない。多くの者が闘いをして死んだ。現在の<ロフト・ジャズ・ムーヴメント>は彼等の闘いを引きつぐべくして現われたはずだし、現われねばならないものであった。
本来殺しとしての「反ユートピア」の果てにはただひとつしかない辿り着くべきものとしての「音楽の解放」があるはずだと私は言いたい。
そう、お望みとあれば、私は<ロフト・シーン>に期待しているとも可能性があるとも言ってもいい。しかし真に<ロフト・ジャズ>の未知に期待するならば仮想としての<不可存郷>を現実の光によって常に照らし、現在に向けて解かねばならないように、現在に焦点を合わしただけの希望や期待や理想はいったん捨てられねばならないのだ。
何故ならどのように光に満ち、可能性の満ちた現われと見えようとも、それは無限に<現実>を貫ぬく行為をこそくり返さねばならないし、まだ見ぬとはいえ、より困難な<現実>に晒されねばならないのであり、この時現在の<ロフト・シーン>として示されるもろもろのものも、より苛酷なジャズの<地獄>に向かわねばならない。
無数の行為者と無名者、そして無産者をかかえて今、<ロフト・ジャズ>はその<地獄>を通ってゆく。
兆しは常に凶々しい程よく、光景は主体が見渡せぬ程混迷している程よい。
ニューヨークにもう一度の冬が来る。私はその間に合う為に出かけるだろう。
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