ドキュメンタリー映画「AA」〜音楽批評家・間章 間章を知るために

単行本未収録原稿
クロスオーバー私論
●クロスオーバーなんて関係ない[鍵谷幸信]
●なにとなにをクロスし、どことどこをオーバーしようというのか[黒田恭一]
●クロスオーバーの真の意味はジャズ+ソウル[稲垣次郎]
●ジャズとは、音楽とは、クロスオーバーとは[副島輝人]
●「クロスオーバー」という言葉の背後の影[間章]
●クロスオーバーという新しいレッテルを批判する[軒口隆策]

「クロスオーバー」という言葉の背後の影
(『ジャズランド』76年4月〜クロスオーバー私論)

 去年の秋ぐらいから、妙に「クロスオーバー」という言葉が耳ざわりになって来たけれども、スーパーの安売りのキャッチ位のつもりで無視していたら、どうやら敵さんは半分本気のつもりらしい。「クロスオーバーとは何か」等というおためごかしの特集が組まれても、真面目にとって怒る方がおかしい位に思っていたが、とうとうレコード店で「クロスオーバー・コーナー」が出来るにおよんで、近頃の「新右翼」同様、新しくも何もないものを新しさとして売り込もうとする動勢、過激でも新形態でも、新しい境界へのまなざしなのに、身ぶりだけはオーバーに殺し文句と、もの欲しさをクロスさせた、悪あがきとしてとらえて一ラウンド位相手にしてやってもいいという気が、春一番のようにやって来たとでも言っておこうか。どのようなキャプションであれ、キャッチ・フレーズであれ、それはその背後に生産←→消費活動のダイナミズムを秘めている。この場合「クロスオーバー」は体制側の大衆戦略の一端として、ジャズの新・商品性確立のシステムに関わる自己保存の為のノミナリズム=命名性としてたち現れてくる。ネーミングの仕方がどうの「クロスオーバー」の概念をもっと明確にしなければなどと考えるのは、この敵の土俵にのっかることになってしまうだろう。
 キャッチ・フレーズが必要なのは常に敵であり、敵への貧しい対応主義でしかない。それは自らの弱体を補強しようとする、立て直しの思想的現われでもある。「境界音楽」とか「クロスオーバー」とか言って、そうでない音楽があるとでも言うのだろうか。キャッチはそれが無意味であり無内容であることによって無限に意見付与でき、読み変えすることができる。「クロスオーバー歌謡曲」であれ、「クロスオーバー・パチンコ」であれ、ファッション風に、ファッショ風に、いかようにでも拡大し、拡散し、すり切れることなく、一つの体制にしか奉仕しない無関心さを増殖させるばかりなのだ。これは常用手段としての右翼的シンボル操作とも言うべきものだ。
 敵さんは、どんな事をしてでも、生き残ろうとする。ようは敵さんは異端も過激も前衛も新境界もまるごと安全化するシステムを強固に持ち続けようとしているということを我々はもっと知らなくてはならないということだ。「クロスオーバー」が日常化しようと、どうしようと、かまわないさ、重要な事はシンボル操作をする影の体制がどのようにして我々を「なしくずし」にしようとしているかを見きわめる事なのだ。
 「ニュー・ファンク」「クロスオーバー」の次のキャッチをせいぜい向うが考えているすきに、こちらが正体不明のままどこかで爪をといでいればいいのだ。

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