ドキュメンタリー映画「AA」〜音楽批評家・間章 間章を知るために

単行本未収録原稿
特集:ミルフォード・グレイヴス
●音楽は世界と人間をその抑圧から解放する力だ〜ミルフォード・グレイヴスからのメッセージ[訳・構成/間章]
●ミルフォードの日常と活動[土取利行]
●ミルフォード・グレイヴスと変様するリズム[竹田賢一]
●ミルフォード・グレイヴスの来日に期待する[高木元輝・近藤等則・豊住芳三郎・梅津和時]

音楽は世界と人間をその抑圧から解放する力だ〜ミルフォード・グレイヴスからのメッセージ
訳・構成/間章
(『ジャズ・マガジン』77年8月)

■今日のジャズの危機

 私はたまにヴィレッジに出かけてゆく。それはスプリング・ウォーターや玄米をまとめて買いにゆくための事が多いのだが、その時にロフトをのぞいたり、幾人かのミュージシャン達に会ったりする。具体的に言えば私はいつもロフトで真の熱気を感じたことがないし、そこに行っていらいらする。というのはそこで見る人々、ミュージシャンや観客に精神的でひたむきな欲求とスピリチュアルなものを感じないからだ。私がそこで感じるものは希求や何かに立ち向う熱情ではなくて、むしろ一種の飽腹であり、肉体と精神の弱々しさ、そして装われたいらだちなのだ。私はそこにもはや慢性的なものとなったノイローゼと行方知れずさ迷う夢遊病的な精神を見る。たくさんの種類の音楽があり、たくさんのミュージシャンがいるが私には皆ひとつの大きな文明病的流れの中を漂っているように見える。それは多分彼等が本当に必死に何かを見つめ、求め、欲求していないからだ。バラバラの肉体、バラバラの精神。それらはとても弱い。そしてこうした無自覚ななりゆきまかせの弱さとは私にとって許せないものだ。皆がそしてその弱さ故にきょろきょろとよそ見している。自分達に確信も自信も信念もないからだ。そしてそういう弱さを表面的にかくすだけの形式やテクニックだけは身につけている。
 もちろん何人かの救いのあるミュージシャン連もいる。しかし全体的に言ってエネルギーと霊的なパワーはとても落ちている。かつてあった共同体的な盛り上りもパワーもそこには見られない。すべてがとても悪くなっている。彼等は無目的に、本当の必然を欠いたまま、食べ過ぎ、寝り過ぎ、煙草を吸い過ぎ、クスリをやり過ぎ、マリファナをやり過ぎ、酒を飲み過ぎ、砂糖を取り過ぎ、セックスをやり過ぎている。そして多くのエネルギーがただむだに費やされているだけではなく、まちがった方向につまり生命力と生産と創造と太陽に対立する方向に向けられて消費されている。そこには真の自分達の「文化」へのまなざしや「新たな力」を生み出そうとする熟意、またそれらに敵対するものと闘おうとする姿勢が欠如している。息もたえだえの音楽がそこら中にまき散らされている。そして真に自分遵を解放し、自分自身をとらわれから救おうとする“自覚”がないがしろにされている。
 あらゆる娯楽的なものとその受け手の間の固定化された法則がしっかり根をはっていて誰もそれを疑わない。そして間に合わせの形式や方向が間に合わせのまま定式化し硬直化している。余りになごやかなそれは光景だ。「ジャズ」はそうした意味で今まで以上の「危槻」にひんしている。そして一番の問題は多くの人々がその「危機」について知らず、自分のやるべき事を知らず、又知ろうと努力し行為していないということだ。毎日毎日彼等は真の文化の可能性と自分達を少しずつないがしろな方法で殺している。それ自体が生産と生命力と新しい力への反逆なのだ。私はいつもそこに「無気力」を見る。


■死んだ音楽と抑圧された音楽からの解放

 真の音楽は真の文化は生命力を発展させるものであり、生命力の発展の中から生み出される。そしてそれはこの大地や自然とむすびついたそれ自体自然で自由なものであるべきだ。しかし現在ニューヨークで聴かれている又演られている音楽はあらゆる意味で不自然で不自由なものだ。私の考え又やろうとしている音楽は人々を抑圧から解放し真の文化を生みそしてそれを現実に生かし、あらゆるアクティビティーつまりすべてをより創造的なものへより発展的なものへエネルギーを向ける行動的で生産的なもの、つまりあらゆる生命活動とその生命体が構成するあらゆるものをより発展し向上させ、それぞれの肉体と精神のパワーを自然と宇宙のパワーと結びつけるものだ。ドン・チェリーの音楽が自然の伴奏音楽ムード的なものであるのはそれはただ彼のイメージの中で生み出されたものであり、生きていることの力、真の精神的なものを有していないからだ。我々はもっとアクティブでなくてはならない。生きているという事それ自体が本来は活動なのだから。そして真の活動的、生産的なものであるためには非活動的なもの、非生産的なもの、つまり全ての抑圧的なものと闘わなくてはならない。そしてその事の最も重要な中心が自已の肉体や精神について学ぶことなのだ。自己の存在と自然・宇宙との問の相関々係について学ぶことなのだ。
 あまりに多くの「生命に敵対する音楽」「死んだ音楽」「抑圧された音楽」がある。「エゴイスティックな音楽」がある。あまりに多くの独善的なイメージ、独善的な思想が氾濫している。ニューヨークで見られるものの全てが反自然的でエゴイスティックな音楽だ。
 エゴイスティックな音楽は行きどころがない。あったとしてもそれは又別のエゴイスティックなものと結びつくだけだ。自己に学び自己の肉体と精神について学び、それを創造的なひらけた関係に向って解き放つという個的な行為はそれが共同的なもの新しい共存ができ全てがお互いに発展できる世界へ向うという意味でエゴイスティックなものでは決してない。私は人間の閉ざされた病を治すために演奏する。そして一方ニューヨークのミュージシャン達は「エゴイスティック」な「ノイローゼ」をまき散らし他人に押しつけるために演奏する。このことの示す意味は明瞭だ。私は生命力とエネルギーを組織化し発展させ、彼等は生命力とエネルギーを閉じ込め形にはまったものにする。私は人間の可能性を最大限に発揮しようとし、彼等はそれに限界を与える。


■リズム・呼吸そして精神と肉体の交流

 この物質文明の社会においては、精神的なもの霊的なものがうとまれている。あらゆるものが物質的なものとしてとらえられている。例えばリズムがそうだ。それは人間やあらゆる生命体とこの自然、宇宙を反映させた生命力の表われとそのヴァイブレイションの法則なのだ。もちろんそれは分析し研究することができる。しかし別々のものがバラバラにあるのではなく全てがひとつのものの多様な表われなのだ。実際それはある中心に向って常にひきつけられている。我々の側からみた時につまり人間の側から自然や宇宙や他の人問との関係へ向けてみた場合、リズムは語るものである。それは言葉より以上に本質的に語るものなのだ。アフリカの古代社会においては、そして現在もそうだが、ひとつのリズムはひとつの何事かを語る。四分の二、四分の四というリズムは最も普遍的な「共に存ろう」とすること、「何かを共に行なおう」とする事を示すものだ。そして又それと同じように四分の三や八分の六は他の働きかけを意味する。そうなのです。働きかけの表われとして或る特定のリズムがあるのです。それは自発的なものなのです。ところが音楽の世界ではただの興味とおもしろさのために不用意に無目的に四分の二や四分の三や四分の五がバラバラに用いられる。それはとても物質的なリズムとの関わり方というしかありません。本来リズムはもっとトータルなものです。明確に四分の二とかいう形でとり出せるリズムはこの自然にはありません。だから意識的に四分の二を行うという事は或る強調を意味し、時には不自然でさえあります。ただ四分の二だけを維持するようにコントロールするということはとても不自然なのです。
 複合リズム、ポリメトリックへの私の探究はその不自然さから脱するために始められました。というのはあらゆるリズムは本来、変化をその内に含んでいるし複合的なものだからなのです。私は演奏に全身を使います。右手、左手、右足、左足、ひじ、十本の指、口、顔、頭すべてです。しかしどのようにそれぞれをそれぞれに使ったところで私の肉体はひとつです。コントロールしているのは一個の全体としての私なのです。ところが他のドラマーはバラバラです。彼等は本当の肉体の動かし方やコントロールの方法を知らないのです。全ては有機的であり、肉体はその中心を常になしているという事を知らないのです。私は実際両手両足で同時に六つの違うリズムをたたく事が出来ます。しかしそれをコントロールしそれらのすべてを組織化し或る方向へ向けてゆくのはこの私自身なのです。
 このコントロールの方法は、肉体について学び精神について学び、生体リズム、肉体構造、そして精神と肉体の関係について学ぶことによってしか達成出来ないものです。呼吸、血の循環、体内のあらゆる流れとリズムと変化、について学ばなくてはならないのです。
 弱い精神を持つ者はすぐ肉体の疲労を覚えます。肉体のエネルギーにだけ溺れる者は精神を欠いた無自覚な行動を行います。それは皆、肉体と精神の関係についての「無知」からやって来るものです。
 精神と肉体の間の緊張を維持し、肉体によって精神を、精神によって肉体を支えみる時真に人間は自己をコントロールすることを見い出します。そして空費するのではなく、自分の生命とパワーを組織的に発し、発展させる事が出来るのです。


■新しい力、新しく真に解放的な力の創出

 人間は自己の生命力を発展し、共に抑圧されたものから解放されるために、自己よりももっと大きなカと出会うために、そして自然と宇宙と太陽のエネルギーを創造的なものへ向けて自己を通して発展させるために生きているのです。西洋文明の社会はそれを消費することの上になり立った消費文明です。それは病いです。私の音楽は私の演奏はその病と抑圧から人間と世界を治療し、人間を肉体的にも精神的にも解放、拡大しその可能性を発展させようとするものです。私が薬学を研究し、生体リズムを研究し、指圧やその他のオリエンタル、アフリカンの医学を研究し、又肉体と精神をより活動的にするため、ヤラ(YARA)という私のアフリカの武道(マーシャル・アーツ)を私なりに発展、組織化した武道を行うのはそのためです。私の活動は音楽に限定されるものではありません。すべてが人間の解放のために組織化される活動としてのトータル・アーツへ向うものなのです。音楽が真に「解放的なカ」「新しいエネルギーとカ」を生み出すためにはこうした細織的な努力こそが必要不可欠なものです。
 そのための修業の具体的なメソッドと方法論が必要です。それがない時には人間は周囲のあらゆる影響や抑圧を受けて、肉体と精神のバランスを狂わせてしまいます。
 かつて共に演奏していた仲間、又同じ時期に演奏活動を行っていたミュージシャンの多くが自己破滅の道を歩んでいます。
 ジョゼッピ・ローガン、ドン・アイラー、ローウェル・ダヴィッドソン、バイロン・アレンは気が狂ってしまいました。それは彼等が余りにデリケイトだったせいもありますが、精神的にも肉休的にも弱かったからです。残念でなりません。エリック・ドルフィーもジョン・コルトレーンも肉体への無知のため死にました。そしてもっと多くのミュージシャン達が弱々しい幻のような演奏を行っているか、肉体のエネルギーの氾濫に身をまかせて空ろになっています。アーチー・シェップ、サニー・マレイ、ファラオ・サンダース等は本当に精神の弱さを反映した演奏を行っています。アイラーも死にました。そして最近では私の認める素晴らしいドラマー、サニー・モーガンが死に、ずっと共に演奏して来たサックス奏者のアーサー・ドイルが精神病院に入りました。そして皆私が強過ぎるのだと言います。そんな事はありません。私はただ誰よりも自己の肉体と精神を見つめそれについて学ぼうと努力して来たにすぎません。そして音楽の本当の力とは何かを考え続け、それを行おうとして来たにすぎないのです。彼等が弱過ぎるだけなのです。あのアイラー、私が知っている最も強力なサックス奏者であるアイラーさえもが、最後には私に「もっとおさえて、イージーに演奏してくれ。そうでないと私が吹けなくなる」と言いました。それで私は彼のもとを離れたのです。
 皆、食べ過ぎ、飲み過ぎ、クスリをやり過ぎています。そして全てを直視し、真に強くなることから逃げています。昔は或る祭りや儀式の時、特別な状態を見い出すために、或る体験をはっきりと感じとるために煙草を吸い、酒を飲み、ドープをやりました。それはそれなりの必然性がありました。しかし今では何の必然性もなく野放しの状態でただ逃避のため、快楽のためにいつでも好きな時にそれをやるのです。それは破壊です。私には音楽でいつでも力を発揮できます。生きている力と喜びを感じ体験する事ができます。私の活動はそれをさらに発展させ、他の人々と分かちあい、そしてもっと大きな力を実現するためにあるのです。それはアートであり、行動であり、政治活動です。真にスボンティニアスでスピリチュアルで強く自由な社会、一人一人の人間を実現してゆくためなのです。人間はそのための無限大のエネルギーを持っています。それを組織的に有効に発揮することこそ人間の使命であり又可能性であり生きている事の意味です。その事によってしか自由は得られません。
 その自由を得、解放を得るためにこそ「新しい力」精神と肉体が本当に有機的に結びついた力が生み出される必要があるのです。そのためにはリズムと呼吸について学び知ることば不可欠です。それは肉体と精神をまさに交流させ結びつけ、発展し、潤滑にし、活動化するものだからです。広く深く豊かなリズム、広く深く豊かな呼吸その事において、精神と肉体の可能性が実現され、音楽の豊かさ、本当に人々にとって必要な解放の音楽が実現されるのです。そしてそれこそが「真に新しい音楽」というべきものなのです。真の生命力とエネルギーの組織化によるフリーな音楽はもはや観念やイメージや形式をあらゆるレベルで越えたものなのです。そしてそれこそが「新しい文化」なのです。


■日本のスピリチュアルな人々に向けて

 私は日本の精神的な文化に敬意を払っていますし興味もあります。と同時にアメリカと同様に日本も物質文明の社会であり、多くのコマーシャリズムと退廃の中にある事も知っています。私はこの13年間、あらゆるコマーシャルなシーンからとうざかって来ました。大学の自主的なコンサート、黒人活動組織の主催するコンサート、アフリカ、ヨーロッパのフェスティヴァル等でしか演奏をした事がありません。それは私の意志であり、意識的な事なのです。その理由ははっきりしています。私は商業的な意味での職業的ミュージシャンではないからです。そして私がニュ−ヨークやその他のクラブで演奏しても、そこに集まる人々からスピリチュアルなものを殆んど感じないからなのです。
 私は日本へスピリチュアルな人々と出会うために真に強い精神を持ち自己を発展させようと努力している人々と出会うために行きます。スピリチュアルでクリエイティブなミュージシャン、武道家、聴衆と真の交流をしお互いに学び合うために出かけるのです。そのための充分な準備を私はして行きます。そして私はそうした人々と出会い、共に演奏し、語ることを楽しみにしています。同じ時期にフランス、スイス、イタリアから公演の申し込みがありましたが、私は日本へ行く事を選びました。一私はアイダやトシ(土取利行)の呼びかけに答え、彼等を含めた未知のクリエイティプな人々との共同の仕事のために日本に行くのです。
 私は彼等の熱意と怒力を信じると同様に日本でさらに多くの人間の解放を志しそのために活動している人の存在する事を信じます。
 私は日本の滞在を真に豊かなものにするために全力をつくして演奏しアクティブであろうとします。私はそのためにこそ毎日私自身のあらゆる学習や研究や修業をしているのですから。
 実りの多い体験をお互いに分かちあいましょう。そして真に力強く自由な音楽を生み出すための努力をしましょう。
 私は私の「文化」のすべてをたずさえて日本へ行きます。そして私は日本で本当の「文化」へ向おうとしている人と会うのです。闘いながら「文化」を生み出そうとする人々と又その「文化」と出会い、お互いの「文化」を最も強く豊かなものにするために。
 日本で会いましょう。貴方達が真に自分の活動をしているのであれば、貴方達か私を見い出すのと同様に、私も又貴方達を見つけます。

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