ドキュメンタリー映画「AA」〜音楽批評家・間章 間章を知るために

単行本未収録原稿
集団即興の修羅〜『カンパニイー』コンサート
写真・文/間章
(『ジャズマガジン』77年8月〜「J.M SPOT」)

 『カンパニイー』はイギリスを代表する即興ギタリストであるところのデレク・ベイリーによってオルガナイズされた各国11人の即興演奏家によるオープンな共同的集団である。
 オープンなというのは他でもない、この11人がいわゆる固定化されたユニットやグループといったものを構成するのではなく、あくまで固を基軸とした形でこの組織体を成しているからである。D・ベイリーはそれを「即興演奏の可能性を開発し、集団即興演奏を発展させようという行為的で自覚的な意志を持つ演奏者のプール(POOL)である」と説明しているが、『カンパニイー』は単なるセッションでもワークショップでもない次元で、又もちろん実験的グループというものが示す或るフォーム内での試行でもない次元での共同性と集団創造と、そしてミュージシャン同士の新しい出会いと場を共有し共同的な関係の断続的維持と持続を目指すものである。
 今年の5月24日から28日までの5日間はロンドンのICAで、そして29日はロックの演奏で有名な元飛行機の格納庫であったラウンドハウスで都合6日間行われた『カンパニイー』のコンサートは、この即興演奏家集団による2回目のコンサートである。ちなみに第1回目のコンサートは去年行われ6人のミュージシャンが参加したが、今回は11人メンバーのうち10人が参加し、デュオからセプテット(7人編成)までのおよそ25の組み合わせでの演奏を行なった。
 『カンパニイー』のメンバーは、次の11人である。
●デレク・ベイリー(ギター)イギリス
●エヴァン・パーカー(サックス)イギリス
●ロル・コクスヒル(サックス)イギリス
●スティーヴ・ベレスフォード(ピアノ・その他)イギリス
●ポール・ラザフォード(トロンボーン)イギリス
●ハン・ベニンク(パーカッション、その他)
●マーチン・V・レクテレン・アルテナ(ベース)オランダ
●トリスタン・ホンジンガー(チェロ)オランダ
●アンソニー・ブラクストン(リーズ)アメリカ
●レオ・スミス(フリューゲルホーン)アメリカ
●スティーヴ・レイシー(ソプラノ・サックス)アメリカ国籍フランス在住
 この内ポール・ラザフォードだけが今回は演奏に加わらなかった。

 実際私が聴いたのは26日と27日の2日間であったが(その後私はパリへレイシー、ベイリー、EEU、吉沢のコンサートの準備の為に戻った。)この2日間を聴いただけでも実に興味深く刺激的な体験であった。
 例えば私の聴いたセットは次のようなものであった。
●ブラクストン=ベニンク
●レイシー=ベニンク=スミス=アルテナ
●レイシー=ベニンク
●レイシー=ブラクストン=コクスヒル=パーカー
●ベイリー=ベニンク
●ベレスフォード=アルテナ=ホンジンガー
●ベイリー=パーカー=ベニンク
●スミス=アルテナ=ベイリー=ブラクストン
●ベニンク=アルテナ=ベレスフォード=コクスヒル
●スミス=ベイリー
 後でレイシーやベイリー自身から聴いた話だが10人全員では一度も演奏しなかったというが、最大限7人までのありとあらゆる組合わせ=メンバーでのパフォーマンスを行なったという。この全員では決してやらないというのがこのコンサートのプロデューサーでもあり、この『カンパニイー』のオルガナイザーでもあるベイリーのひとつの考え方=思想を如実に示している。つまりそれは全体を決してイメージせず、或るミュージシャンの不在や欠落を常にいだき、演奏を流動的なものとし馴れ合いや予定調和を排してゆくというまぎれもないひとつの意志を反映させているのだ。だから誰も『カンパニイー』の全体を同時に見る事も聴く事も出来ず、又『カンパニイー』の全体像というものが最初からないような形でこの集合体は見い出されているのである。ベイリーはこの事について次のように言っている。
「『カンパニイー』は常にイレギュラーなグループとさえ言えないような。それはそれ自体の存在がまさに即興的なものなのです。それぞれのセットのメンバーはその場で決められます。そして演奏をしないミュージシャンはそれを聴いたり見たり、また好きな事をする訳です。そして一切の演奏が何事も決められる事なく即興的に行なわれるのです。」
 こうした考え自体それはとてもイデアル(理念的)なものである。しかしそれを単にイデアルの次元にとどめておくのではなく実現するのがまさに『カンパニイー』の一人一人のミュージシャン達なのだ。そしてまぎれもなく『カンパニイー』の中心にデレク・ベイリーがいる。彼は私にこう言った。
「それは何年もかかりました。私は今の『カンパニイー』のメンバーのそれぞれとデュオから始めました。そして次は三人で、その次は四人でと。そうして一人一人のミュージシャンと出会い、彼等の音楽への姿勢を確認しながらそれが10人になったのです。全員が同時に顔を合わすのは今日が初めてです。私は1人ずつに呼びかけました、すべてが即興演奏に真剣に取組み、卒去演奏の可能性にかけている人達です。そして私はと言えば即興こそが全てです。私は即興演奏にしか興味がないのです。この『カンパニイー』がそして又何事かの出発であり始まりなのです。具体的な成果は眼に見える形ではないと思いますが、ここで何かが今までにないような形で生み出されようとしている、という事だけは言えます。こうした集まりこそ私の永年の夢だったのです。」

 二夜の演奏を聴いて私が思った事は、それぞれの演奏者の即興への向い方、即興への関わり方、方位、そして何よりもそれぞれの即興のクォリティー(質・内容)が異なるということであり、そのクォリティーの異なる即興演奏者同士が共に演奏すると彼等のヴァイブレーションや働きかけ方、自己表出の仕方等によってそれぞれの演奏者の位置と演奏者同士の距離やずれが生まれ、又そのずれや距離によって即興的に出来事が生まれ展開してゆくということの興味深さであった。
 それはしかし余りに現実的な光景であった。例えばレイシー、パーカー、コクスヒルの3人がソプラノ、ブラクストンがソプラニーノという4人の演奏者で行なわれたパフォーマンスだが、これほどはっきりと演奏者のレベル、即興への関わり方、演奏者としての資質の違いをはっきりと見せたものはないだろう。
 ブラクストンは小きざみに、又めまぐるしくサウンドを変え高音低音を発して、狂おう狂おうとするかのように演奏してまた精一杯動きと変化を作り出そうとする。コクスヒルは中音域のスケールをくり返す。そしてレイシーはと言えば微妙なトーンで実に冷静に全体のサウンドを彼の音を通して組織化しようとする。力量は明らかだった。演奏半ばではっきりしたのはレイシーがまさに思いのまま、共にスポンティニュアスに(決して支配するというような形ではなく)全体のサウンドをコントロールしているという事だった。この演奏の時程ブラクストンが可愛い子供に、落書きのない小っぽけな人間に見えた時はなかった。
 そして全てのミュージシャンの中で最も素晴らしかったのがD・ベイリー、S・レイシーそしてH・ベニンクの3人だった。危険な言い回しを使えば、彼等3人は別格のインプロヴァイザーであり、他のミュージシャンと数等異なるレベルにいるのだ。
 レイシーのすごさにはいつもながら目を見はった。彼がすごい事は私にしてみれば言うまでもない事だが、本当に驚ろき又戦慄的でさえあったのはD・ベイリーの演奏であった。彼程スポンティニアスで即興的なミュージシャンは又とないだろう。彼の演奏はまさに“信じ難い事の連続的光景”とも言うべきものである。誰よりもリラックスし、誰よりもアナーキーで、誰よりも強力な磁界を持った、まさに“即興の鬼”というべき存在だ。
 そしてこの彼がH・ベニンクとやったデュオはレイシーとベニンクのデュオと並んで最高のレベルの“即興演奏”であった。
 しかし聴いた限りの演奏のすべてがとても興味深かった。ライヴでは初めて聴くホンジンガーやアルテナも新しい世代の即興演奏家であり彼等の示す局面もその貧しさや新しさ同様体験的ではあった。しかしベイリーやレイシーやベニンクが入ったセットではどうしてもその場が彼等を中心とした磁界を浮かび上がらせるように思える。それは彼等のテクニックやパワーのせいでは決してないのだ。実戦の経験豊かさでも決してないのだ。それは言ってみれば“即興演奏家としての作業性”“演奏者として抱えた厳しさや自由さ”“演奏への生き方”の違いといったものとしかいいようがない。演奏者は演奏によって全てをさらけ出し、現わす。生活も思想も修行性もその人が抱える文化も、又その人の背後にあったものも、その人の体験も。その事を私は今さらのように思った。そのことだけでも『カンパニイー』の二夜、それはまたとない体験だった。それは演奏の修羅を見た夜だった。

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