ドキュメンタリー映画「AA」〜音楽批評家・間章 間章を知るために

単行本未収録原稿
Steve Lacy, Michael Smith / Sidelines (Improvising Artists Inc. IAI 37.38.47)
(『ジャズ・マガジン』77年8月〜ディスク・イン・ザ・ワールド ZOOM UP)

Sidelines Side A
1. Existence
2. Utah
3. Austin Stream
4. Sideline
Side B
1. Beeline
2. Time
3. Worms

Steve Lacy (ss), Michael Smith (p)

September 1, 1976 at Bendiksen Studio, Oslo,

 レイシーの最新アルバムはかつてレイシー・クインテットに在籍していたこともあるマイケル・スミスとのデュオである。レイシーはこの他7枚の新作が続々とリリースされる予定である。以下参考のためそれを列挙してみる。フレデリック・ゼフスキーとのデュオ、リチャード・タイテルバウムとのデュオ、アルヴィン・カランとマリア・モンティとのトリオ、カナダ録音のソロ、ニューヨークでのクヮルテットの録音、ベルリンでのクインテット(FMP)、同じクインテットに加古隆を加えた全曲歌入りの新録(サラバ)。このスミスとのデュオは最初ポール・プレイからの申し入れで彼とのデュオの予定が変更され、現在オスロに住むスミスがその代わりを務めた形で実現したという。レイシーには最近非常にデュオのアルバムが多いが、それは彼自身意図する所のようである。このアルバムでもはっきりと判るように最近の彼はますますその演奏の深み(それはソプラノのサウンドの多様さとクオリティーの豊かさにおいて見られる)を増しておりそれは2年前の演奏しか知らない我々を驚かすに充分だ。そして彼は単に極めてすぐれたサックス奏者というにとどまらず、即興演奏にフォルムを与えるというそれ自体途方もなく困難なことにより明確な具体的方法を実現させつつある。それはいってみれば精神と肉体のつな渡りに似たスポンティニアスで連続的なそして開かれた“型”(武道においてみられるような)に近いものである。それは又音楽的を制度性としてのコードや調性によるのではない新しい秩序又は演奏のコンテキストの創出を思わせもする。即興を組織化することと即興をさらにより自由へ向けて展開させることという一見矛盾するかの試行を同時に行うことには必然的に方法論が必要だが、レイシーの場合その方法論自体がコンベンショナルな形でのものではなく又“論”といった観念でもない。それは演奏実現のさいに立現われるあらゆる遠心力的なものと求心力的なものとの間のテンションとバランスの内にコンテキストを生み出すことであるという“離れ技”ともいうべきものだがそれが“技”にも“芸”にもおち入っていないのは彼が“即興”にも“演奏”にも常に危険を進んで受け入れ、彼自身言うところのエア・ポケットヘ向っているからなのだと思われる。例えばこのデュオ・レコードにおいても彼は自分の曲の構造を一旦解体するかのようにスケールからスケールヘチェンジし曲が持つレールを踏み越えようとするかのように演奏している。そして一見行き着く所を予想させるかの曲自体の存り方をその演奏によって別な場所、別な風景のもとに連れ出している。彼の演奏にどの意味においても予定調和的なものがないのはその、ためである。彼が他のどのようなサックス奏者とも違うのは自己表出という形をとる行為の位相の違いから来るのだが、それは即興そのものにも偶然にも情動にも決して身をまかせかないレイシーの“覚め”と“能動性”によっている。この“能動性”とはあらゆる自己の自動性に対するもので演奏者がプレイに熱中すればする程、自己の属性に“受動的”になるという事に対する意味においてである。彼の演奏と曲との関係はそしていつも曲そのものと演奏そのものの先験的をストラクチュアー、言ってみれば自己の足跡と予想されるものを消してゆく与件的なコンテキストの破壊、消去に向うための彼の演奏への戦略としてある。つまり、彼は演奏することによって曲なる存在性を解き放ち、あたかも虚無そのものから生まれ出たように表音するのである。だから彼の演奏はいつも奇跡のようにしかも自然に現出するのだ。だから彼にとっての曲はより危険へより未知へ進入してゆくためのものとしてある。それはもはや概念的なものでもイメージ的なものでも或る世界の描写でもなく“直観”に限りなく近づくものである。それは彼以外の誰にも翻訳不可能なものであり、無意味のものだ(彼が意味を有すようには)。まるで書き得ないものを書くように、曲でも表わし得ないものを曲とするかのようにそれはそれ自体のみに本質を抱えている。エクリチュール(書く事)に対してジュエール(演奏する事)という概念が設定されるとするなら、彼の曲にしろ実際の或る演奏にしろある演奏を浮ばせるのではなくてそのジュエール(演奏する事)を浮ばせるかのようでさえある。だから彼の演奏を通して我々はその演奏以上にもっと巨大なものの影を見てしまう。それがレイシーの演奏の持つ秘儀性と言えるものである。重要なのは彼が全くのフリーで演奏した時よりも或る曲を演奏した時の方がより自由でかつアナーキーで豊かであるという事である。そしてその事こそ彼は彼の実存を際立たせ演奏なるものの豊かさと可能性と恐ろしさを生み出す。それにしてもレイシーの自在さはどうだろう。彼は殆る共演者をまるで自己の演奏そのものの一部としてしまうかのようにひき込んでゆく。しかも相手との距離をより明確にしながら、すべてをクリアーにしながら“エゴ”を消してゆく。

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