単行本未収録原稿 |
「突然フルーツサンドで終るお話」
(『ジャズ・マガジン』77年10月〜「ディスク・イン・ザ・ワールド」時評)
最近はますますレコードを聴いたりコンサートヘ出かける事が少なくなった。そして一時期この事が私自身ひどく気がかりになっていたものだ。レコードを探して聴いたり、情報や資料を集め読む事、そうした事がとても疎ましくそれ程大切な事でもないと考えるようになって来たのだ。経験の多様さとか深まりといってみてもそれはそんな事つまり多くの物への出会いの欲求と実践によってどうにかなるという代物ではないとますます思うようになった。実際今年私が聴いたコンサートといえばニューヨークで何回かとパリで何回かその他はEEUやミルフォード・グレイブスのコンサートで私が運動としてその内部で関わったものだけだ。むやみやたらとレコードやコンサートを聴くと頭が馬鹿になるような気がするし、そうしたものへ向ってゆく勤勉さはどうしてもどこかで敵の制度と知らず知らずの内に順応する危険を持っていると思えてならない。何にもかんでもに意見をはこうとしたり批評をしようとするのは、実におろかしいばかりかテレビの大橋巨泉や竹村建一の無節操さとどこかでしっかり結びついているようだ。そして又思い込みでばかり動く人間はピエロ以下のマリオネットだ。実に様々の愚かしさばかりが眼についてしょうがない。過日日本のフリー・ジャズ・ミュージシャンは「はきだめだ」といった高名をドラマーがいた。過日お金を払っているのだから何をしても良いとばかりに無断でとったビデオをミュージシャンの要望にも関わらず絶対に消そうともしなかったジャズ喫茶の女主人がいた。過日、最もおろかしい事に、自分達のなれ合いが通らなかったからといい、一緒に共演できないから、他のミュージシャンとの共演のミルフォードのコンサートをキャンセルしたミュージシャン達がいた。もっともこの人々客にさんざん批判されたがけろりとしてサンバ等を踊っていたらしい。過日そうした一方的をその人々の愚かしさ無様さから起きた事を、心配だ何とか理解し合うべきだと電話をかけて来た“良心的な人”がいた。事はそんなに簡単な問題では決してないのである。ミルフォードの今回の公演で実に多くの事を経験した。もとよりこの公演は私と半夏舎という集団とそしてミュージシャン(ミルフォード、日本のを含めて)との内と外へ向けての具体的な“関わりの運動”であり又全体がそれ自体運動として行なわれたものだったのだ。ただ単に良いコンサートをやろうとか、良い音楽的、非音楽的友好、協調関係を見い出そうとかいうものではなかったし興行でもプロモートでもなかった。もしでも実際金が動いているからには入場料を取るからには興行じゃないかという人がいたら私は次のように言いたい。機能や見かけだけを問題にするのか、内実は、事に関わる者達の具体的関わり、働らきかけ、行動様式を見ないところで又問題にしないところでただシステムだけを表皮性だけを問題にするなら、私がそういうお前の犯罪性無節度を告発する、と。すばらしいミュージシャンを呼んでただ彼のすばらしさを見とどける又は学ぶ又は体験する、もしそんな事だけしか考えかつ又やろうとしないとしたをら私はそれを“運動”などと呼ばない。前述の無自覚をあわれをミュージシャン(私はこんな風に人の事を言わねばならないのをいつも本当に悲しい事だと、残念な事だと思っている)のように共演の為にマラソンはじめたりバーベルを上げたりするという意識を私はとても笑えない。“主体的である”ということはそんな事ではないのだ。ただ必死にぶつかる事でもないのだ。がんばるぞというガンバリズの上昇志向は、ゆったりと安楽椅子にこしをかけて「世界」が書かれている文字づらをながめ考え、思考する安楽思想共々我々をこの体制と制度に封じ込めるだけのものだ。そしてさらにはおのれを姿を具体的な他者とのへだたりや関わり差異のなかで見てゆこうとする“まなぎし”をおおいかくそうとするものだ。「私は平和主義者ではない。時に私は何かを判断し、そして断じ行動する。それが暴力だというならば私は暴力を駆使もする。」という意味の発言を私はキャンセルされたコンサート会場である八王子のジャズ喫茶で100人程の客の前で行をった。そして私は朝の1時まで話した。私とミルフォードの公演の全体をになおうとする人々との関係や運動について。我々の謙虚さや誠実さの存り方について、又我々の「闘い」について。私はその夜本当に怒った。そして主催者ととりまきと犯罪的なキャンセルの当事者であるミュージシャン達に、そしてさらには本当に彼等の無様さがなさけなくなったのだった。今すべてはまだ「過中」にある。単にそんな事件の事を言っているのではない。すべてがだ。とりわけ我々が「ミルフォードの来日」中に主体的・積極的にになおうとした事の一切がだ。私は平岡正明風の講談調の情況等ということは一切言わない。奴等のエンターテイメント、お遊びはこの制度のスピードとシステムに波長を合わせているだけのホーム・ドラマ構造にくるまれたドロップだからだ。11PMだって時には楽しめるのだから私も平岡のC詞ブルースは時に楽しむ。「俺が楽しんで見せてあげられる位、奴等は底が浅い単純さでもっているのさ」とでも言ってやりたいが「 」の中にくくってあるのはもう少し遊ばせた方が終りが楽しみだからだ。我々は「過中」にあると言ったが、その為に色々なエンリョはしていられなくなった。もう「静かなる男」はジョン・フォードと共に過去のものにしようとつましく思っている。「おとなしくするとつけ上るから」というのではなく、おとなしくしている程ひまも余ゆうもなくなったし、戦略も第2段階に入ったと自覚するからなのだ。このなしくずし的日本のジャズ情況、なれ合い。それを先ず謙虚に解体してゆかなくてはならない。味方探しなどは日和見主義者のやることだ。マスをねらうばかりに敗北し続ける日共と平岡(私はいっしょに出来る)はもう見あきた。我々はもっと具体的に確実にたとえささやかな領域にであっても具体的な一対一の関係の中で自己をきたえ関ってゆく。情況の解体の指向線をこそ先ずは創出してるタイトルはつまるところの文章の外で“書かれる”ということを示す。見かけはフルーツサンドだが実は毒がし込んである。毒のこまるところは相手にもきくが自分にもきくということだ。
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