ドキュメンタリー映画「AA」〜音楽批評家・間章 間章を知るために

単行本未収録原稿
サン・ラ[Monorails And Satellites][Monorails And Satellites Vol.2][Solo Piano Vol.1][Live At Gibus In Paris][The Antique Blacks]
(『ジャズ・マガジン』77年10月〜ディスク・イン・ザ・ワールド ZOOM UP)

[Monorails And Satellites](Saturn SR-509)
Side A
Space Towers/Cogitition/Skylight/The Alter Destiny
Side B
Easy Street/Blue Differentials/Monorails And Satellites/The Galaxy Way

Sun Ra(p)
Recorded in Sun Studios, New York 1966

[Monorails And Satellites Vol.2](Saturn SR-9691)
Side A
Astro-Vision/The Ninth Eye/Solar Boats
Side B
Perspective Prisms Of Is/Calundronis

Sun Ra(p)

Recorded in Sun Studios, New York 1966

[Solo Piano Vol.1](Improvising Artists Inc. IAI 37.38.50)
Side A
Sometimes I Feel Like A Motherless Child/Cosmos Rhythmatic/Yesterdays
Side B
Romance Of Two Planets/Irregular Galaxy/To A Friend

Sun Ra(p)
Recorded at Generation Sound Studios, New York City on May 20, 1977

[Live At Gibus In Paris](Atlantic 40 540)
Side A
Spontaneous Simplicity/Lights On A Satellite/Ombre Monde #2
Side B
King Porter Stomp/Salutations From The Universe/Calling Planet Earth

Sun Ra (electronic keyboards, pace instruments, syn, voice) John Gilmoer (ts, ds) Marshall Allen (as, fl, oboe, pic) Danny Thompson (bs, fl) Danny Davis (as, a-cl, fl) James Jackson (basson, fl, per) Elo Omoe (bcl, fl) Akh Tal Ebah (utp, flh) Kwame Hadi (tp, flh) Alzo Wright (cello, viola, ds) Thomas Hunter (ds) Shahib, Odun (per, conga) Aralamon Hazoume (per, balafor dancer) Math Samba (per, jire eater) Ronnie Boykins (b) June Tyson, Ruth Wright, Cheryl Banks, Judith Holton (space ethnic voice)

Live recorded Octber 1973 at the Gibusin Paris.


※アルバムタイトル・ジャケット・クレジットを修正。掲載時は[Untitled Vol.1]となっている。

[The Antique Blacks](Saturn 81774)
Side A
Song No. 1/There Is Change In The Air/The Antique Blacks
Side B
This Song Is Dedicated To Nature's God/The Ridiculous I And The Cosmos Me/Would I For All That Were/Space Is The Place

Sun Ra (el-org, key, dissertation, syn) John Gilmore (ts) Danny Davis (as) Marshall Allen (as) Akh Tal Ebah (tp, voc) James Jacson (basoon, perc) Sly (eg) Clifford Jarvis (ds) Atakatune (conga)
Live recording, surely in a radio station. Philadelphia, August 17. 1974

 何をさておいても言わなければならない事があるとしたならそれはこのさい「サン・ラこそは現代ジャズ界最大のトリックスターである」ということだろう。(注−トリックスターとは何かについてはP・ラディン、C・ケレーニイ、C・G・ユング共著の歴史的名著「トリックスター」晶文全書をぜひ参照せられたい)彼こそは本来神話作用と共同体の根源的同一性を仮性と現実において体現し、神話と共同体そのものの具現者たる存在としてのトリックスターを今日生きぬこうとし現に生きている類いまれな「道化」なのだ。だから彼が神話とか宇宙とかいう言葉を連発しまた実際彼自身を太陽の神ラーに擬し演奏し演じ、必死に彼の神話の中で活動し続けているということは故ない事などであるはずはなく非常に道理にかなった必然的な事なのだ。「道化−トリックスター」とは他ならない「限りなく神に近い人間」の事であり、そのことを最も良く、承知しているのも、又限りなく近い故の限りなき速さ、絶望的な距離、最も俗世間、人間的を貧しさも弱さ、みじめさを知りぬいているのもサン・ラ自身なのだ。この世の現実にはとてもそう「道化」など見当らぬ。見渡せば花も紅葉(もみじ)もなかりけり−ただ限りなく「道化」に近い痴れ者がうようよいるばかりなのだ。しょせんは「愚老」にも「白痴」にも「ただの人」にもなれぬ痴れ著それをこの際「カス」とも「バカ」とも悩味噌脱腸患者」とも「エンターテナー」とも呼んでそう違いはないだろうが、この「エンターテナー」こそ何をかくそう自堕落に堕した「道化」のなりそこないの事なのだ。このなりそこないはそれこそ地上に満ちあふれている。このジャズ・マガジン誌のページの中にもだから満ちあふれている。「灰色の盲想」とか「月記」とか「ヒステリア」(どうも正確に思い出せない)でも何でもいいがまるで「グラスの底に顔があってもいいならジャズ雑誌にもでたらめがあってもいいじゃないか」とでも言いたそうな方々にこそサン・ラの恐れおおい程の鼻白目さと謙虚さを学んでほしいものだ。サン・ラはそうなのだ、どこまでも鼻白目で真剣でナイーブで正統的で気品がある。それはフランシス・ベーコンの正統を継承者がルイス・キャロルであり、小津安二郎の正統を継承者が小沼勝であるように厳正にそうなのだ。私はこのサン・ラのソロ・アルバムにそうはっきり言おう、うそもつけない男の、冗談のひとつも言えない男の姿を見た。それは実に久方ぶりの事であった。だから私はここでサン・ラの宇宙哲学、エキセントリックさ、知性、ミスティフィカションの一切について触れない。ロラン・バルトもルイ・アルチュセールもレーニンもマルコムXもここで入りこむ余地がないのだ。ましてや新結成の三バカトリオ(思いつく名前をここに入れたらきりがない、富樫、山下、渡辺でもてきとうに入れて欲しい)は銀河系の彼方の平長屋に追放されてしまっている。サン・ラには演技力などないのだ。サン・ラには正面きってとりあげるべき講談めいた宇宙哲学もアフリカ志向もないのだ。そのことが実にすばらしい事なのだ。サン・ラというとコスミックとかユニヴァースとか土俗とか何だとか言うが、それこそが知性(この場合は痴性と同義語である)のめくらましに1人おどりするまがいものの文化なべ、近代映画もどきの文化人・近代人のコッケイさなのだ。サン・ラ程のりりしい都会的文化人が他にいるか、しかも皆が盲腸のように大事に持っているコンプレックスと全く関わりのない現代人がいるか? サン・ラはエリントンがせっせとジャズの近代化をはかっている時にせっせとジャズの擬近代性のらっきょうの皮をむき続け、よりセンシティブになっていった。スインガー波田氏所有の75年のソロ・アルバム(2枚)もその事をはっきりと教える。とにかくアバンギャルドでありながらとてつもなくセンチなのだ。このサン・ラの姿はとても貴重だ。ピアニズムなんて言葉はくそくらえ。テクニックなんて言葉は犬に食われろ。ストライドやホンキートンク、現代音楽の影響がなんていいたがる耳はのっペらぼうになってしまえなのだ。
「余はサン・ラである…」という書出しの手紙をもらったのは確か3年前だったが私はまだサン・ラからの「うちのアーケストラで日本公演をしたい呼んでくれ」という希望を積極的にかなえたいと思いつつもかなえられないでいる。なにしろ5年かかってやっと2人なので。このレコードでもサン・ラ・アーケストラのメンバーは20人いる。ダンサーをいれたら30人近い。そして彼こそが今日本当にオーケストラをオーガナイズし得ている唯一の人間である。彼が最高のオルガナイザーとしての資質を持っている。何しろめっぽう限りなくオープンな組織化を実践しているというのは大変な事だ。サン・ラのアーケストラのオーガニズム(組織性)を考える時、すっきりとマイルスのオーガニズムの反動性や、セシル・テイラーのそれの劣等コンプレックスがすけて見えてしまう。特に70年代に入ってからのサン・ラのレコードを注意深く聴くと彼の紳心さと大胆さは驚くべきなにげなさの風を装いながらも非常に高いレベルでのクオリティー(内質)を生んでいる。このライブはその見事な例だ。まさに地上的に超えている。
 まさしく世界音楽の指向線と創出を目指すかのようなサン・ラの全音楽群。クロスオーバーなんてしょせん観念じゃないか、便利だからって、使いべりしないからってそう安易に使っちゃ低脳さとC詞さが丸見えになるじゃないか−と言ったのは私だが、この70年代初期の未発表テープ集VOL.1(ちゃんとサターンから出ている)を聴くともうずっと前からサン・ラはそう思っているという事が判った。「生活? そんなもの召使にまかせておけ」といったのは19世紀のダンディーだが、このレコードにはクロスオーバーを100万光年向うの井戸端会議と相手にもせず、ちゃんとそれ以上の事を実践しているサン・ラがいる。どの曲も素晴らしい。1曲目のサンバ風フリー、2曲目のカリプソ風コミック・ストリップどれもこれもそうお耳にはかかれないこの世の音楽だ。実際どの部分をとってもVSOP以下、キース・ジャレット以下というところはもちろんだがない。それどころか今日聴く事の出来る最高にナウな音楽なのだ。そしてそれが6年以上も前の録音であり、リリースされたのが今年であるというブラック・ユーモア。サン・ラを私はまだまだ軽く見過ぎていたようだ。(サイドメンのギルモアそして無名氏のギター、非常にすごい)

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