ドキュメンタリー映画「AA」〜音楽批評家・間章 間章を知るために

単行本未収録原稿
Friedrich Gulda[Nachricht Von Lande](Brain 080.016-2)
(『ジャズ・マガジン』77年12月〜ディスク・イン・ザ・ワールド ZOOM UP)

Side A
Einsamkeiten/Begegnung Auf Moosham
Side B
Wechsehamer Begegnungen Auf Moosham
Side C
Mooshamer Begegnungen : "Das Gewitter"
Side D
Mooshamer Begegnungen : "Nach Dem Gewitter"/Nachklange, Ruckkehr, Zweismkeit

Friedrich Gulda (clavicord, bass recorder, p, bongo), Ursula Anders (ds), Barre Phillips (b), Cecil Taylor (p), John Surman (ss, bs, syn), Albert Mangelsdorff (tb), Stu Martin (ds)
Recorded live in Summer 1976

 途方もない貧しさが例えばジャズと呼ばれそしてジャズとして身を現わそうとするものを広くおおっているという感がますます実感として色濃くなってゆくようだ。確かにすべての表象や行為はこの時代との連関と共時の中にあるとしてもこの時代とするどく交わり定かならぬ闇や傷に深く引き裂かれしかもおのれの行為と姿を見つめ続け持続し続けねばならないという、当り前といえば当り前の切実さをそれがどのように深刻であれ又そうでなくはあれ体現したミュージシャンというものがそう見えてはこないのだ。仮りそめに今ジャズがジャズであることのリアリティーやアクチュアリティー、ジャズとの関わりはどこにどのようにしてあり得るのかというそれ自体貧しい問いを発した時、そこに浮び上る一切のものはただ言い知れぬ貧しさ、あからさまを貧しさとのもののように思えてならない。だから私にはジャズという言葉を脱き去ってフリー・ミュージックだとか即興音楽という言葉の方へ向ってゆく全ての示威は何をかくそう貧しさの貧しさによる上すべりで安易で無責任な行為としか思えない。ジャズにしがみつく事も又フリー・ミュージックとか即興音楽といともたやすく発してしまう事も共々途方もない貧しさの領野、救いがたい程のイージーさとしてしかありはしないというこの実感、それこそこの時代が我々に促そうとし又強制するおぞましさであると思える。もはやしらけでも無関心でもあり得ず、同族意識でも共振への幻想でもあり得まい。空ろになればなる程はなやかな自己主張がはびこり、可能性が大言される。そうでなければそれこそ空ろを意味権力の中での仮死の儀式がくりひろげられる。最近目にしたリチャード・タイテルバウムの日本のジャズについての文はもう救い難いバカバカしさと貧しさそのものであった。何が世界音楽だ。寝言をいうのもいいかげんにしろ、自己の安全と秩序の上にどっかりとこしをおろした、貧しい固定観念と感受性のチークダンスはいくら彼がおぼっちゃんで優等生でこれまで政府や財団の金で勉強し旅をし生活し演奏して来た甘えの中にいたとは言えもう許し難いおろかさとして姿を揮わしている。しかしこの貧しさは明らかに彼だけの貧しさおろかさではないのだ。これまで我々がどうにかして限をそらし得て来た貧しさの総体が彼のポッテリとした貧しさを通して現れれたに過ぎない。彼とは近い内にいずれ正面きって対してってい的に彼の思い上りとイージーさを告発するつもりだがそれにしてもこの日本、ひどさはゆく所までゆくしかないらしい。私はこのジャズ・マガジンにしたって毎号私にする度にもうどうしようもない位気がめいってしまう。そこにはこの日本のジャズのありようとか情況がまったく恐ろしい形で反映しているからだ。すべてのものがすべての貧しさを鏡のように映している。もちろんその貧しさは手と無えんのものだ等という気はない。しかし余りの無節度、無自覚、無関心は私の手を離れてあるとも言わねばならない。貧しさを見つめようなどと言う気はさらさらないが、自己忘却はどのような手段をもってしても回避されねばならない。今日本のジャズ界(すべてのである、渡辺貞夫から富樫雅彦、ニュージャズ・シンジケートその他のもっとアバンギャルドだと思っている人もふくめて)のただ中にある貧しさはあらゆる意味において右にも左にもなり得ぬ右翼と左翼の無自覚な右傾への横すべりとしてあるそしてこのだらしなさの極みとしてのミュージシャンを補完するジャーナリズムとジャズの回りや中心にあるジャズ喫茶、レコード店、プロモーター、シンパ、ファンのだらしなさ、いいかげんさはこの貧しさを救い難いものにしている。10年前の私ならすべてのジャズ喫茶、レコード店を破壊し、全てのジャズ雑誌をつぶせと言ったかも知れないが、もとより今の私にはそれ程の親切心もない。ただ空ろに空転し、肥大してゆく彼等の際限ないうぬぼれと貧しさを見つめ続けるばかりである。さてズーム・アップだがこの「Nachricht Von Lande」76年夏、オーストリアはザルツブルグのフェスティヴァルのグルダ・プロデュースのコンサートのライヴ盤である。先号でとり上げた「Mumps」の4人、サーマン、マンゲルスドルフ、フィリップス、マーチンに女流のパーカッショニスト、アンデルスそれにセシル・テイラーを加えた様々の形のセットによるセッションである。テイラーの没落はそよ風のようにもうなつかしい思い出としてここにもある。私はそれをかみしめよう。そしてフリードリッヒ・グルダのそれ自体切実なアナーキーさを覚えておこう。これはまぎれもなくグルダのアルバムだ。テイラーの速さと速いグルダがまだ生々しくこちらへ向って来るのは彼がどこにも行きどころのないオブセションを必死にかかえているからだろう。「ルーツ」を見るまでもなく黒人のアイデンティティーはもうなつかしさとして客観化されるところまで来てしまっている。テイラーよそれでも貴方は自分の幻想の先を見ることが出来るか、不可視の血のひとたれも流さずに。

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