ドキュメンタリー映画「AA」〜音楽批評家・間章 間章を知るために

単行本未収録原稿
特集:蘇った不死鳥ジョン・マグラグリン…そしてサンタナ
●ジョン・マグラグリンの最近の音楽性と方向[岩波洋三]
●マハビシュヌ・オーケストラ…不可能のサウンド[間章]
●プロフィール[編集部]

マハビシュヌ・オーケストラ…不可能のサウンド
(『プラス・ワン』73年4月)

●火の鳥の伝説

 もはや次の事が性急にも言いうるかも知れない。マハビシュヌ・オーケストラは今までの他のどのグループが行ったよりも遠い所に来ていると、そしてこのグループこそは71年から73年にかけて現われたグループの中でも、最もパワフルであり、しかも最も重大な位置を占めるグループであると。このことは単にジョン・マクラグリンという信じがたいギタリストの栄光によって生まれたフェノメネ=現象ではあり得ない。71年から73年に生まれたいくつかのユニット=グループとこのマハビシュヌをくらベてみても、マハビシュヌのグループの構造とテクスチュアーはぬきん出て創造的なように思われる。例えばサークルやウェザー・リポートやリターン・トウ・フォエバーはポストフリーと言ういやな言葉が現わすようにフリージャズの長い斗いの後でグループにおける各楽器奏者の位置とそれぞれの距離や関係が20年来続いていた固定性から解放された後で、主にサウンド中心にキーボードとパーカッションのラインで再構成されたものに過ぎない。これらのグループのサウンドをつきつめて聞いてみればなんのことはないバップイディオムにおけるリードセクションが後退し、リズムセクションがメロディとリズムのアクションをプールするパートからリードパートまでをカバーするようになっただけである。特にこの点で考えるとサークルは50年代後半のガンサー・シュラーやジミ・ジュフリーのイディオム構成とほとんど変わらず、リターン・トウ・フォエバーはスイングのほとんどのステロタイプの構成そのままである。
 マハビシュヌのサウンドの特性はまずその楽器構成を複数の対位的位置関係にからませていることによって表わされる。特に『内に秘めた炎』から『火の鳥』へマハビシュヌが信じがたくサウンドの有機性を強めたのもその点であった。
 先ずギターとヴァイオリンの対位それからギターとベースの対位それに、ベースとヴァイオリンの対位が確保されつつ、しかもヴァイオリンとギターが一つのラインを保持しつつ、ドラムスに向い合う形でもってマハビシュヌの内へと外へのパワーのテンションをキープするようになっていることが印象的である。
 マクラグリンの語るようにこのグループで最も大きな役割を果しているのはその意味でコブハムのドラムなので有る。
 あえてマハビシュヌのサウンドの秘密を構成上から考えてみたのは他でもない、このすばらしいグループのはてしなく広くしかも極度に厳密な音空間は、マクラグリンのニルヴァーナに達したかのようなやさしさと自由さとメンバーの静かな関係や偶然の思い出したものではなく、グループとしての音楽についてのマクラグリンのつきつめた考えによるものであることにふれたかったからである。
 『マイ・ゴールズ・ビヨンド』から『内に秘めた炎』そして『火の鳥』というジョンの軌跡はそのままジョンの自己確信?慰安?からなる旅出ちをつづける。『内に秘めた炎』のあの達観の果てにどのようなことがあるのかと考えた者に対してジョンは安定の場からはなれて一見過激な攻撃にも思える程の突出力をむきだしにして現われた。神の炎によってめらめらと燃え天界へ駆け登ってゆく、清心としての火の鳥とはまきにジョンの他ではないだろう。


●行としての音薬、やさしさとしての演奏

 マクラグリンの師、スリ・チンモイはインドのグル=導師であるが、彼はアメリカに渡ったジョンを待っていたかのように、ジョンにまさに目の覚めるような出会いとして現われた。スリ・チンモイの思想については彼の主著がまだ日本にはなく、ジョンの言葉を通じて断片的に知られているだけであるが、ヒンズーやハレ・クリシュナとは違って自然行を中心とした一種の自然神秘主義のように思われるが、私には意外に思われる程、オープンで明るい性格を持ったもののようだ。スリ・チンモイによると、彼の信仰の世界ではメディティションの次に位するのが音楽である、とのことであるし、音楽は神なのだとのことである。ジョンはこのチンモイに会うとそれまでのひげやかみを切り、肉と酒とグラスとを断ってベジタリアン菜食主義者になったそうである。このことだけを聞いた時、ジョンも今までにも大勢いた新興宗教信者のミュージシャンと同じではないかと思いがちであるが、そうでないことは彼のプレイを聞けばわかる。
 ジョン個人の内面生活の事をぬきにしても彼とマハビシュヌのサウンドの透明な洪水のような、無数の光の飛沫のようなパワーは彼と彼等の音楽についての新らしい精神的境地を十分に感じさせる。それは一言で言えば精神修行としての音楽をグループ全体の交感を通じて未知のコミュニケートヘ向けて成立させるということになのだ。
 ジョンは「私が音楽を演奏するのではなくて、音楽が私に演奏させるのです、私は私を通じて表われて来る音楽に生命を与えようとします。私は音楽が神と内面のひそかなところからやってくるとしたならば音楽はかならずそれを聞くだれかの内面に行きついてそこで生きるだろうと信じるのです。そうしたなら私達は音楽を通じて今までと違ったレベルでコミュニケートできると思います。」と語る。そしてジョンは音楽の最も大切なものはやさしさだと」言い続ける。
 ジョンとマハビシュヌのサウンドは今までのジャズやロックの刺激性と違った何かをすでに形づくっている。ある人はマハビシュヌのコンプリートなコミュニオン=結合とトータリティ=全体性がつきつめられればかわるサウンドと空間の均質化に近くなってゆくのではないか? あるいは最終的にマハビシュヌは沈黙へ近づくのではないか? と恐れているのではないかと予想されるが。少なく共マハビシュヌが本当に今の時代に受け入れられたなら、単純な娯楽によりかかって成り立っている地平を変えてゆく力になってゆくのではないかと考えている。今まで他で何回となく使われて来た言葉だが、マハビシュヌはジャズでもロックでもなくして最もビイビイッドでアクチュアルたり得た初めてのグループとなるだろう。


●光より速い指?銀河の星をあびる男

 『火の鳥』の50分余りの時間はおどろく程にも濃密だ。特にグッドマンとジョンとコブハムのコンビネーションは時としてそれぞれの者が入れ変わったり混じり合ったりしているのが見えるぐらいに思えるようにも楽器の音を超えている。どのように性能のよいオーディオで開いてもーつの楽器の音を迫って追っていけないだろう。というものはもう物理の世界を音が超える位にマハビシュヌが一つの新らしいエスパスを方法的にも具体的にもかちえているということである。
 『火の鳥』でレコーディングでは初めて本格的に使われたギブソンの特製の2ヘッドギターはさらに6オクターブ以上も広く音をエクステンションし全体をカバーし、まるで銀河のようにうねりながら個々の音々をきらめかせる。どこかで語られた、ジョン・マクラグリンの指は動かない、まるで止まっているようでいて音の方が自然に飛びでるようだという神がかなりのようなテクニックはもはやギタリストとしてのジョンについて語るのはむだだということを明らかにするようにもすぐに認められるに違いない。
 72年にイッツ・ア・ビューティフル・デイやT・レックスの前座をつとめて観客を五度も総立ちにさせたという無名のグループ・マハビシュヌはその中心であるジョンのスリ・チンモイのメディティション思想を通じて、カルロス・サンタナやその他のミュージシャンに影響を与えるスーパー・グループになりつつある。その原兆は過でにしてサンタナの『キャラバンサライ』に見られるが、マハビシュヌが目指すものは全体が一個の無名になるような大きな音楽行集団のように思われる。ただ私にはジョン・マクラグリンがいつまでこのような演奏をつづけてゆくつもりなのかを幾分冷静な気持で見ている部分があることを告白しておこう。たしかにジョンとマハビシュヌは最高のグループの一つであり、彼等のエスパスのしなやかさは例えようのないものである。だが私はまだ古典的にも音楽は過程なのであって、結果ではない、つまり斗い続ける以外に音楽はリアルであり得ないと信じているので、マハビシュヌが何かに達してしまいそれを単表明するグループにならないことを願ってやまないのである。
 それにしてもこれからの様々な間題は『火の鳥』の飛び立ったあとからにあることである。『火の鳥』が『リターン・トウ・フォエバー』よりもずっと開かれなければいけないと言うことはおそらく私でなく共誰かが断言してくれるに違いないことである。

after[AA](c)2018 after AA