ドキュメンタリー映画「AA」〜音楽批評家・間章 間章を知るために

(参考)清水俊彦氏による書評
アナーキーな開かれた音楽の地平へ向けて
間章『この旅には終わりはない』『僕はランチにでかける』
(『新潮』93年2月)

 一九七八年一二月にわずか三二歳で夭逝した間章は、不世出の、そして不撓不屈の音楽評論家、というよりも思索家であり、また、オルガナイザー、プロデューサーを兼ねた自主活動家としての工作者だった。ニーチェがハインリッヒ・フォン・シュタインについて述べた言葉を借りれば、間章もまた、「許し難く、若くしてこの世を去ってしまった」のだ。
 人生とは〈なしくずし〉の人生でしかない、というオブセッションが間章の生き方、感じ方、考え方の根幹神経を形作っていた。〈なしくずし〉になってしまうことを拒否しようとすれば、「現実の生のさ中なる私のさらに苛烈な生への参入と関わり、不確かな生への働きかけ、行為以外にはないのだ」。そして彼は、音楽をこのような論理的な生の集中的な実現としてとらえている。
 見方を変えれば、それは自己に集中することと、客観的になること、という二つの相反する持続テンションが行為と作業をオペレイトしてゆくことである。間章自身は、これを、「自己解体と自己組織化、または自己否定と自己解放の照らしあい的作業」と見なし、その反復のなか、ゆれ動きのなかに創造と行為の本当のダイナミズムがあると考えていたようだ。こうしたラディカルな思考にもとづいて作業を行った音楽評論家は、おそらく彼をおいてほかにはいなかっただろうし、現にいないだろう。
 ところで間章の関心事は驚くほど広範囲にわたっている。一八歳の時すでに小説を発表、詩人や歌人と交流し、立教大学に入ってからは中世のフランス文学を専攻するかたわら、神秘主義とバタイユに傾倒し、つづいてセリーヌをはじめカフカ、アルトー、ブレヒト、ブランショ、ロートレアモンなどに魅せられ、さらに、ハイデッガーを問いつめ、ハイデッガーを通して自分を問いつめると同時にシュタイナーに学ぶことによって、「我々は負性を持った人間である。と同時に、呪われた逆理と両義性を生きる人間である。……それ故にこそまなざしを解放へ向けてゆく」という認識に達した。そして音楽においてはジャズ、ロック、シャンソンのみならず現代音楽から民族音楽までを聴きまくり、特に前記三者については、いま述べたような認識をひっさげて真っ向から取り組んだのである。
 しかし、そうしたプロセスのなかで、間章はなぜジャズを最も中心的な対象として選んだのか。それは、彼が自分のかけがえのない生き方のありかを、ジャズそのもののなかに見出したからではないか。なぜなら、ジャズには、あらかじめ抱かれている感情や立場の感覚に適応しないような事柄や経験をつねに乗り超えながら、かつてなかったもののなかに身をゆだねようとする〈変容のプロセス〉が生きて働いているからだ。ジャズにおいては、全体とこのアンビヴァレントな関係が、日常的現実の何十倍も凝縮されて、むき出しに現れてくる。彼にとって、ジャズは、一般の評論家が問題にしているような形式や解釈の問題ではなく、ひとつの意志による行為の選びとりと、その持続であり、また思想にほかならなかったのだ。こうした彼の思索の根底をなしているのは、「国家、制度、体制・反体制を超えた場での現実的抑圧への闘いであり、それを他者へ向かって開いてゆく作業」(辻邦生氏)である。
 間章が短い生涯のうちに成し遂げたかずかずのすぐれた業績のなかで、特に注目されるのは、言うまでもなくその膨大な著述であり、そのなかから文章を選び、とりまとめた著作集のすべては、なんと彼の死後に刊行されたのである(その編集は、一貫して間章にこだわりつづけているごく少数の同世代の仲間たちによるものであることを明記しておく必要があるだろう)。最初の大冊は、「ジャズの死滅に向けて」という思索を軸にした、本質論に関わる『時代の未明から来るべきものへ』(イザラ書房、一九八二年刊)であり、二冊目はジャズ、ロック、シャンソンのレコードのライナーノーツを集めた、これも大部の『非時と廃墟そして鏡』(深夜叢書社、一九八八年刊)である。そして、今度はジャズ・エッセイ『この旅には終わりはない』と、ロック・エッセイ『僕はランチにでかける』が柏書房から同時に出版されたわけである。つまり、間章は著作集によって、死後にふたたび甦ったということになるが、それはエゴイズムを排し、新しい音楽、人間社会の在り方を求めて闘ってきた彼の文章、姿勢がきわめて今日的な意識にあふれているからだろう。
 『この旅に終わりはない』は、間章が私財をなげうって、はじめて日本に招いた、それぞれ極北に立つ三人の即興演奏家、スティーヴ・レイシー、ミルフォード・グレイヴス、デレク・ベイリーとの魂の交流と本当の生き方を求める旅の記録であり、レイシー、ベイリーとの対話、間章によるグレイヴスの言説の再構成と覚書を中心に編まれている。そこでは即興、ソロ、アンサンブルなどをめぐる真摯な論証がなされているが、何よりも重要なのは、即興がもはや表現のための手段や方法ではなく、人間のあるひとつの生き方そのものに関わってくる、という判断である。これらについての間章の問いかけもまことに鋭いが、ミュージシャンの言葉もしくは言説も根源的で実に美しい。たとえば、いったんはジャズを離れようとした間章をふたたびジャズに連れ戻し、闘うとはどういうことかを彼に教え、ジャズを終わりのない冒険に導いているレイシーは、「闘いだけが真の勝利に達するのです」、「即興とは、不可能なものへすべての生を賭けることです」、「私だけの音楽というのはありません。私のなかにはさまざまな何千年、何万年の音楽がこだましているのです」と語っている。また、西アフリカのルーツに遡り、アフロ・アメリカン・カルチャーのドラミングについて論じているグレイヴスによれば、「音楽は人間の肉体に具体的な基礎を有している」、「自己において、他との関わりにおいて真にスポンテイニアスで自由であり、しかも自主性、主体性を演奏において具体化しながら『より生きるため』に私のすべてはある」と言う。それにしても、ジャズの基本的なビートは、フォー・ビートではなく、心臓が鼓動するスリー・ビートだ、と言う彼の指摘に意表をつかれない者はいないだろう。では、その演奏が地上におけるまったく独自の在り方としてのアナーキズムの発現そのものであるベイリーの場合はどうか。「私は演奏の終わりはいつも仮初めの終りだと思っています」、「もう十年以上も練習はしていません。演奏です、それはいつも」、「一瞬一瞬まさに新しく創造し生きつづけること、そして新しく関わりつづけること、それが私には即興演奏の意味に思えます。……音楽はそして常に人間の新しい可能性の方向に向かってあるというように思えるのです」と彼は述べている。
 間章は、この三人からこうした言葉を引き出しながら、彼らのいるそれぞれの場所を通して、言葉が人格を含めての人間のあらゆる抑圧や制度から自立してゆく可能性を見極め、完全なでたらめと完全な必然が同時に実現するような地平をめざす過程で、アナーキーな思索と行為の源泉を明らかにしようとしているのだ。
 一方、『僕はランチにでかける』での間章は、「私にとって、ロックとは音楽の階級支配を破砕し、音楽の抑圧を解放する音楽的な局面での闘いであり、具体的な手段である。そこに個人や世代やカルチャーの未知への、解放の闘いとそのアンビヴァレンス、そしてダイナミクスを含まない音楽に、解体と再生、創造の行為に照らされない音楽に、私はまったく興味を持っていない」との立場をとり、『非時……』のライナーノーツとは違った観点から、七〇年代の創造的なロックのさまざまな局面に新たな光をなげかけている。ジャズへの旅では「より生きるために」が主調低音になっているが、このロックへの旅では、存在の寒さと亡び、夜の凶々しさ、愛と狂気がよりあらわにされており、それらが、間章につきまとう死の影と二重映しになって、不吉な暗いトーンをかもし出しているようにさえ感じられる。このことは、冒頭の「なしくずしの共和国」においてすでに明らかである。
 本書の前半は、ロック後進国ドイツの前衛的、実験的なロックに重点が置かれているが、それはアメリカのハード・ロックの形式化、イギリスのプログレッシヴ・ロックの閉塞化を打ち破るひとつの具体的な可能性を、ドイツ・ロックの〈カオス〉と〈旅〉のなかに見出したからだろう。しかもなお、間章は、カオス自体の変革と、カオスの只中からのカオスの超出を企てねばならないとして、タンジェリン・ドリームやファウストやカンなど、ドイツ・ロックの星雲圏に鋭く、精緻なまなざしを向けている。
 また、その音楽が内在的なアンビヴァレンス、矛盾、カオスの超出、転化への働きかけに多く起因しているローリング・ストーンズを論ずるにあたって、ミック・ジャガーとの異和と相克によってストーンズの独自性を作り出したブライアン・ジョーンズを高く評価しているのは卓見である。
 後半での間章は、舞台をニューヨークへ移し、自分がじかに会ったバロウズのドラッグと禁欲と覚醒、ウォーホルの無関心と悪夢などを介して、アンダーグラウンド・ロックの「深く大きな生の切実な現実」をヴィヴィッドに浮び上がらせている。たとえば、彼は、その「未来のなさ」のゆえにパンク・ロックに共鳴して、それをセリーヌと結びつけ、醒めたカオスとしてのヴェルヴェット・アンダーグラウンドに向かって、「お前たち以上の亡びと毒とカオスはまだどこにも見いだせないままだ」と語りかけ、無限に変容しつづけたマーク・ボランをロートレアモンに喩え、最後に、ヘロイン中毒者の声をもち、魂だけを見つめてきたルー・リードの音楽の非凡さに胸を打たれながら、「何度か自殺の誘惑にかられ、そのたびに生きていることの大切さと歓びをかみしめる」のだ。少なくとも筆者にとって、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド試論」と「アナーキズム遊星群」は、本書の末尾を飾るにふさわしい圧倒的な感動を誘ってやまない。両者での間章は、まぎれもなく、ロックについての自己の思索のすべてを昇華させている。
 そう言えば、間章は、「亡びのない闘いはない。僕はその果てへこそ向かおうとしている。だがその前にちょっとランチへ出かける。このランチには遅れるわけにはいかないのだ」と言っているが、そのままついに戻ってくることはなかった。「自分には時間がないので、急がねばならない」。いや、彼は闘いを急ぎすぎたあまり、ランチにでかけたまま、闘いながら死んでいった者たちの仲間入りをしてしまったのではないか。
 彼の死後一四年、ジャズとロックは何度となく擬制の死と再生を繰り返してきたが、そうした流れのなかで、この二冊のエッセイ集は、先の二著に劣らず、あふれんばかりの先見性を際立たせており、間章が、いまなおわれわれの導きの星として光り輝きつづけていることを実証している。必読の書だと思う。

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