ドキュメンタリー映画「AA」〜音楽批評家・間章 間章を知るために

単行本未収録原稿
スピリチュアル・ユニティー第1回自主公演「スティーヴ・レイシー・コンサート」リーフレット(1975年6月)
スピリチュアル・ユニティー/半夏舎

●スティーヴ・レイシー/ソプラノ・サウンドの探求〜あるいはポスト・フリー:清水俊彦
●新しい位相がやって来た〜スティーヴ・レイシー雑感:鍵谷幸信
●スティーヴ・レイシーとの対話〜彼方への意志と覚醒をめぐって:間章
●スティーヴ・レイシーの音楽的経歴とディスコグラフィ:諸岡敏行
●日本のミュージシャンの紹介[池田芳夫・佐藤允彦・高木元輝・富樫雅彦・豊住芳三郎・吉沢元治・翠川敬基]

主催/企画:スピリチュアル・ユニティー
後援:日本コロムビア/東宝レコード
制作:半夏舎
照明:リュミエール兄弟社

スピリチュアル・ユニティー構成メンバー:清水俊彦・鍵谷幸信・庭野善男・稲岡邦弥・諸岡敏行・間章・藤本雄三・小川浩・上野勉・磯田秀人・斉藤
賛助演奏家:吉沢元治・高橋悠治・小杉武久・富樫雅彦・佐藤允彦・高木元輝・豊住芳三郎
アウトスタンディング・アドバイザー:内田修・瀬川昌久

編集:間章・藤本雄三・諸岡敏行
デザイン:ロビン・アート・スタジオ
印刷:相馬印刷所

スティーヴ・レイシーとの対話〜彼方への意志と覚醒をめぐって


1. レイシーとの出会いの三つの場所(70年12月「レ・ペ・ドゥ・ボワ」)

 私が初めてスティーヴ・レイシーと会ったのは70年の冬パリはシャイヨ一宮の近くの「レ・ペ・ドゥ・ボワ」という木造の小さなホールでだった。『ジャズ・オット』誌のコンサート案内でその日のコンサートを知り、幾人かの人に道をたずねながらそのホールについた時は過でに最初のセットは終っていた。
 入口で学生風の若い男が「学生料金の10フランでいいよ」というままに私はそれを払ってホールヘ入っていった。階段式になった形の木造のホールはおよそ500人は入る広さだったが会場には私を入れてたった7人の客しかいない。ステージの回りはすべて客席でそれは4つの方向に段々にせり上っている。やがてレイシーは三人のミュージシャンと共に演奏を始めた。メンバーはレイシーのソプラノ・サックス、そして彼の夫人イレーヌ・アエビのセロ、ケント・カーターのベース、ジェローム・クーパーのドラムスであった。
 このセットの演奏は約1時間半で前半の演奏は彼のフリー・フォームの代表作『森と動物園』を思わせる激しいコレクティブ・インプロヴィゼーションでレイシーはもちろん、ケント・カーターとジェローム・クーパーのベースとドラムがテンショナブルな可変的リズムとスペースをうまく導き出し、グループは見事なサウンド・テクスチャーの中で解放的な音を展開させ続けた。それは30分間続き、クワルテットの機能のめくるめくダイナミズムを創出しながら一瞬の沈黙の後、二曲目の演奏に入っていた。この二曲目でレイシーはソプラノを逆さにし朝顔に顔を当て吸ったりはいたりしながら激しい1時間近くのソロを行なった。
 顔を真赤にしながら、複雑にキーを動かしつつ、レイシーは決して出ない音をめぐって約1時間演奏行為を行なったのだった。それは、沈黙と静寂と意志と、音の不在と現前をめぐる苛酷なドラマと言える時間だった。そこにはすべての音の発現の寸前の極まりと、音と行為を結ぶ音の出発とはじまり、そしてそこからすべてが生まれるであろう張りつめた意志の光景といえるものがあった。それは多分私が今までに聴いた最も感動的な演奏でありソロであった。レイシーは音を放つのではなく意志と意志の中で組織化し又すべての可能的な音の表現と未明に立ち向った。カーターとクーパーはそのソロの背後で細やかな音を生み出し、レイシーのソロを支え、彼等のユニットのサウンドの中で維持すべく演奏した。そのセットの後でレイシーは全身汗だくのまま放心したように客席のすみにこしかけていた。その7人の客と4人の演奏家によるコンサートが終った時は過でに12時が少し過ぎていた。楽器をかたづけるミュージシャンを見ながら、内部でせめぎ合い、呼びかわすいくつかの言葉や感情のまま座っていた私は一人の男に話しかけられた。その『ジャズ・マガジン』のライターでカメラマンであるという男は「なんてすごい夜だっただろう」と私に語りかけ、私はその語りかけにすぐには答えられないままうなづいただけだった。そしてその男がレイシーに私を招介してくれたのだった。近くのカフェでその男と二人で話しているとソプラノを抱えてレイシーが静かにやって来た。私は殆んどとりとめのない事を話したように思える。それは無限に多くの事を人に語りたいという気持と早く一人になってこの夜の〈体験〉について考えたいという矛盾した気持の合間で語り得たとぎれとぎれの話にしか過ぎなかった。ただ私は今、私の「あのソロの時程私は貴方の激しい感情表出を感じた時はなかった」という不用意な発言をひきついだレイシーの言葉を思い出すだけだ。「私は演奏によってすべての演奏の可能性に向かいたいだけなのです。現実の私の演奏がいつもその時のたった一つの演奏の方法に過ぎない時、私は私の考えている音楽への私の達しがたさを思わずにはいれません。その時、一つの失語の姿勢に似た演奏の方法があのような演奏を行なわせるのだと思います。」
 私は次の週に彼と彼の自宅で会う約束をして別れた。しかしその三日後私は抗いがたい自らの誘いによってスペインとアフリカヘ向けて立ち、パリヘ帰るとすぐに病気で日本へ帰ることになってしまった。
レイシーの自宅にて  次にレイシーと会ったのはおよそ三年後の74年の3月だった。レイシーとの約束の一週間後が三年という月日になりその三年の間に何があったのかは今は語らない。ただ私はその三年の季節を経てレイシーと再会したことが私の選びとった必然であったことを今信じている。74年の二度の渡欧をつうじて私はおよそ7回彼と会いそして長時間語った。二度目に彼の部屋、そしてその半年後に合った「クール・デ・ミラクル」の楽屋は、「レ・ペ・ドゥ・ボワ」と共に私とレイシーとの三つの出会いの場であったと言えるだろう。「他者とはすぐれて出会う未知の別名に他ならない」という詩人の言葉のわだちの中で、三つの冬の三つの場所で三つの出会いを通して私は「鮮やかな他者」レイシーと過したのだった。思えばことごとくの冬の中で…


2. レイシーとの対話(74年3月「チトン通りの彼の自宅」)

A(間章)「ふと考えると現在のジャズの衰弱と混迷はいままでのジャズの危機や低迷と違う局面があるように思えるのですが、貴方はどう考えていますか。」
L(スティーヴ・レイシー)「確かにそうだと思います。現在のジャズの混迷は深くジャズそのものの本質的な矛盾と関わっているように思えます。もちろんそれはまた情況的なものであってます。情況的にはフリー・ジャズに対する問い直し、フリーであるとはどういうことであり、何の為めのどのような自由が求められねばならないかという反省があると思います。フリー・フォームが最終的なフォームだと考えて来た人々は−かって私もそうでしたが−そのフォーム自体が明らかな形をとらないという事で逆に込じ改められて来たのですし、目的のない自由は自由ではあり得ないという事に気づいても来たのです。そしてそれらの事でジャズというのはバップやファンクに逆行してしまい又もう一度コルトレーンの苦悩を味わおうとしているのです。」
A「ジャズということを最も問い疑がわないのはミュージシャンだと言えますが。それはミュージシャンが本質的に快楽主義者である為めと、職人つまり技術者と芸術家つまり行為者の二面的矛盾を有する存在だからでしょう。
 安定と秩序と安全の中に収まるのであればジャズの行きつくところは目に見えています。それは現実をうまく運ぶ為めの機能であり消費物でしかありません。フリー・ジャズとはそうしたジャズのふうじ込めに対する全面的な異疑申し立てであり問いかけであったはずなのですが、それはいつのまにか目由である為めの斗いと自由であることの危機を忘れてしまった側面があります。
 フリー・ジャズの真の行為化と持続の為めには途方もない意志と一種の自己解体の方法化と覚めが必要だと考えますが、それは現在では本当に限られた幾人かの人々によって追求されているにすぎません。その幾人かの人々の具体的を名前をあげるなら貴方やセシル・テイラー、アンソニー・ブラクストン、デレク・ベイリー、マリオン・ブラウンというふうになりますが、貴方を含めた何人かがポスト・フリーという事を口にし又論述しています。このような経緯の中で貴方がポスト・フリーと呼ぶのはどのような行為であり内延であるのか教えていただきたいのです。」
L「それはとてもむずかしい事です。私はいくつかのインタビューでそのことを答えたり又書いたりしましたが、いまだにはっきりとは答えられていません。私はその事について今も考えている途中です。ですが、ポスト・フリーがもう一度新たにフリーを目指す為めのものだろうという事は言えます。私達の目指すフリーが創造行為と結びつく可能性としてはフリーヘの意図を組織化する事がのぞまれなくてはならないと思います。フリー・ミュージックの運動が集合的な意織を目指していたとするなら、私のいうポスト・フリーは個の意識の復権とでも言えるものです。作業としてのフリー、それが私にとってポスト・フリーという言葉であらわされるものです。」
A「アンソニー・ブラクストンの場合はもっとはっきりしているようです。彼は合理的な人間でジャズの発展と展開を強く信じていますが、彼のポスト・フリーとはフリー・ジャズの発展形態であり未知の具体的探究の方法化とでも言えるもののようです。彼にとってフリー・ジャズとは1つの実験期であり、彼はそれを個的な方法の上に具体化する事にポスト・フリーの意味を認めているように考えられます。貴方の現在の音楽は私には存在論的(オントロギッシュ)に見えます。何か表現という領域をふみ超えようというような。例えば貴方はソプラノ・サックスで音がでるぎりぎりのラインの上でソロを行いますし、時には朝顔を口に当てて1時間も演奏したり又マウスピースだけで演奏したりもします。それはどのような方法意識と意図の上で行なわれるのでしようか。」
L「別に過大な意味はありません。あるいは私の演奏へのウォーミング・アップと考えてもらってもかまいません。ですが私が1曲1曲の演奏にそれぞれの制約を加えていることは確かです。作曲とは違った形で私は私の演奏に枠組と制服を与えています。それは演奏家が演奏において−時に即興演奏においてですが−何においても自由であってはいけないし自動的であってはならないからなのです。」
A「それは多分存在的なモラルとつながる何かなのだと思えます。例えば全てが許されているというような世界のあり方を許さない意志というような形の。音楽の可能性には私は時として窒息するようなひろさと不遜さを感じてしまいますが、貴方にとって音楽とは或いは音楽行為とはどのようなものなのでしょう。私はこの何年間というものエリック・ドルフィーやバッド・パウエルについて考えてきましたがますます途方もなく音楽がわからなくなって来ました。貴方のこれまでの音楽生活の中でそのような危機はどんな形であったのでしょうか。今私にとってそれを聞くべき演奏家が貴方だと思えるのでこうして話をお聞きしているのですが。」
L「演奏とは一つのモラルの姿であるかも知れません。もちろん私は演奏を楽しむということもあります。しかし私にとって演奏はいつも何かの為めの何かに向っての行為なのであって、その演奏の中に全てのものが根拠などもあるというようなものではありません。
 音楽にはおよそ三つのタイプと接し方があると考えます。一つは音楽が常に回りにありそれを加み合わせたり、結合させたりしてゆくことが出来ると考えるタイプとそうした音楽。もう一つは音楽とは音楽の内部の声や感情や思考を表現し現実化していくことだという考えとそうしたタイプの音楽。そしてもう1つは音楽はそこに実現しているものではなく常にむこう側に、彼方にあるのであって、そこに達しようとするタイプの音楽です。私の音楽は常に彼方(アウト・ゼア)にあります。私はそれを一回も手にしたことがありません。私はそこに向って一生懸命走ってゆくだけなのです。本当に一度として音楽に私が真に考える音楽に私は達したことがありません。私は音楽が“彼方”にしかないことに憎悪しています。でもそこへ向って演奏し続けるだけなのです。多分ドルフィーもそうだったのでしょう。彼は余りに早く死んでしまいました。それはいつも彼は余りに早いのです。だから私は彼の死に対してどのような言葉も用意できません。ただ彼はフィギュアの音楽、音楽のフィギュアをギリギリまで見せてくれたと思っています。私はもう25年以上ソプラノを吹いています。最初は御存知のようにディキシーからですが、やがてセシルと一緒に演奏活動をしました。私はディキシーにコレクティブ・インプロヴィゼーションの基礎を教わりましたし、セシルには方法とテクスチェアーを教わりました。私にとって最も大きな危機というか転機は1967年にありました。ご承知のようにそれはあの『森と動物園』をレコーディングした年ですが、その年に私はフリー・ジャズの私にとっての頂点に達すると共に私の音楽についてあらゆる考えをもう一度ふり出しから考え行動することを始めたのです。その時以来私が私の方法にたどりつくまでに約三年の月日がかかりました。その方法とはオープンなしかし組織的自覚的をテクスチャーを得るためのものでした。ソロ・レコードを吹きこんだ時(『ラピス』)私は意織的に私のこれからの姿勢というものを自覚したのだと言えます。」
A「その事は私なりに理解していると思っています。私はあの『ラピス』を聴いた時、おそらくここまでの演奏の地点に達した人は一人もいなかったのではないかと思いました。あれはアバン・ギャルドでも実験でもミスシィフィカションでもなく、真に自覚的な方法の展開と言えるものだと思います。コールマン・ホーキンスやロリンズやドルフィーでもドルフィーは私にとって常に例外なのですが一のソロの地点を貴方は始めてふみ超えてサックス・ソロを無意識と意識の肉体と知のせめぎ合う一つの場へ投げ出したと言えるでしょう私も又貴方と同じように数年ジャズの世界から離れていましたが。私にとって貴方の『ラピス』や『ギャップ』は大きなきっかけになったのです。」
L「私にとってそういう貴方の言葉程うれしいものはありません。あの時期、私はまっくら闇の中にいて手さぐりだったのです。ギルビイックやポンジュといった詩人、それにカネソティとかエルネスト・ブロッホの本がなぐさめだったようです。」
A「ギルビイックやポンジュの名を聞いて私はうれしい限りですし、貴方からカネッティーの名を聞くとは思いませんでした。ヘニー・ヤーンとかボルヘスそれにモーリス・ブランショなどはお読みですか。私は貴方の演奏を聴いてジャコメッティやラウンシェンバーグと共にヤーンを思い出すのですが。」
L「良い読者とは言えないでしょうがもちろん読んでいます。貴方のあげた人達は私にとってアルトーやランボーそしてフローベルと共にもう古典だと言ってもいいでしょう。
 今度はこちらから日本の事を聞かせて下さい日本のジャズ・シーンとかそれからクリティックの事や前衛芸術の事を聞かせて下さい。日本にはアンダーグランド・シーンといえるものがありますか。」
A「コマーシャル・ジャズの各方面でのなれ合いの恐怖政治が続いています。もちろん、シリアスなミュージシャンも幾人かいますが広く活動するには人材が少なく困難な状況にありますしそれぞれ孤立しています。又一方には過激な前衛主義者がいて、無自覚な前衛と保守の二元論を生きています。クリティックは貧しいと言わざるを得ないでしょう。私の知ってる限り清水俊彦という人を除いて批評家の名に値する人はいないようです。この清水という人ははっきりとした批評の方法と意志を持っています。何と言ったら良いでしょうか、“客観的な方法”と言いましょうか覚めた、一見ニヒリスティックな姿勢ですが私達を感情でも理性でもない場所へ送りとどけ、考えさせてくれる文章を書く人です。前衛芸術については色々と説明するに複雑ですので今度送ります。アンダーグラウンドも日本にははっきりした形ではありません。状況のすみにあるという意味でならあるのですが。現実の文化をトランスフォーメートするパワーと文化はまだその領域を持っていないようにも見えます。とにかくジャズは、今はファンクとビバップ・リヴァイバルの大ブームです。」
L「すぐ消えるでしょう。二年三年も続くブームはありませんから。貧しさが豊かさに、仮装が新らしさに見える時代はいつの世にもありますが、それはすぐに次のものにとって変られるだけです。私にとってフリー・ジャズが大きなブームにならなかったのはだから幸いです。」
エクササイズするレイシー A「色々な評論家や雑誌が“フリー・ジャズの時代は終った”と書いていますが、私にははらが立ってなりません。何も終らず、始まるのもこれからだと私は思いますし、フリー・ジャズの運動と理念がどのようなものであったのか考えることもせずに“終った”というのは、ていの良い埋葬のようです。中にはフリー・ジャズが終ってホッとしている人もいるようですから。」
L「本当ですか。そういう人にはおそらく何もわからないのでしょう。おっしゃる通りすべてはいつもこれから始まるのです。フリー・ジャズもただ何でもフリーなら良いという時期が終っただけです。これからは本当のフリーにたえてゆくフリーの道があるのです。『ダウンビート』なども貴方の言った論調ですが、そこにあるのはただ退廃でしかありません。幾人かの真にシリアスなミュージシャンが現に活動を行っているのですから。」
A「そのシリアスなミュージシャンとは貴方にとってどういう人達ですか。サックス奏者の中にはどんな人達があげられるのでしょうか。」
L「セシル・テイラー、ドン・チェリー、アンソニー・ブラクストン、マリオン・ブラウン、デレク・ベイリー等でしょう。その他は良く知りませんがサックスの奏者ではサム・リバースやロスコー・ミッチェル、それにオリバー・レイク、アンドリュー・ホワイト等の人達がいます。」


3. レイシー/ソロ・コンサート(74年11月「クール・デ・ミラクル」)

 レイシーと会ったのはピエール・バルーとブリジット・フォンテーヌと待ち合わせたサラヴァの会社の前の小さなカフェでだった。フォンテーヌは姿を見せなかったが、そのカフェで私はレイシーと三度目の再会をした。幾人かのミュージシャンとの仕事の打合せでデレク・ベイリーやアラン・シルヴァそれに彼のグループのイレーヌ・アエビ、そしてピアニストのマイケル・スミスがいた。又ひげもじゃに房った顔のレイシーを見つけると人なつこそうに笑いながら立ってむかえてくれた。雑談を1時間程したがその中でベイリーのソロのコンサートとレイシーのソロ・コンサートの話が出る。「今度貴方を日本へ呼ぶ計画がある」と話すと座にあったシルヴァやベイリー、スミスからうらめしそうなため息がもれ、レイシーはうれしそうにしかし照れくさそうに私の手をにぎりしめる。私はその前の日ラテン区のホテルで朝まで「ジャズの創造性に関する三つのコメント」と題した論文のメモを取っていた為少しの赤ワインで、頭がふらふらになってしまい早目に別れた。
 ソロ・コンサートの会場は真四角の100人程で満員になる日頃は前衛演劇を行う小屋で行なわれた。当日10時開演なのだが、演劇の方が長びき客もレイシーもホールの入口になっているカフェでそれぞれワインやコーヒーを飲みながら待っている。ローラン・ゴデーやモーリスやフランソワ・ポスティフと話しながら私は相当のワインを飲んだ。やがてコンサートは始まったが中は超満員で遅れて入った者は椅子はおろか坐るところもなかったがゴデーがチャッカリどこからかベンチを運んで来て一緒に坐れという。レイシーは20分の休みをはさんで約二時間演奏した。それはレコードの『ラピス』や『ソロ・コンサート』(EMANEM)以上にすばらしい演奏だった。ソプラノ・サックスで出し得るあらゆるサウンドと音色のあらゆる奏法とテクニックによって、レイシーはめくるめく行為と体験の時間を創出した。
 それは音楽と存在の様式への様々をインシェション(加入儀礼)であり、音と沈黙のせめぎあうすみわたった意志の光景であった。
コンサートチケット レイシーは無限にリフをくりかえすかと思えば音を断ち切り、裏返し、制止し、逆行させ、変容する連続と非連続のアクションによってどこにもない音”の位相をかいまみせてくれた。コンサートの後、汗でびっしょりのレイシーと私はせまい楽屋でひとときの対話を行った。私が「四年前貴方のコンサートはたった7人しか客がいなかったが、今日は満員でびっくりした」と冷やかすとレイシーはうれしそうに「少しづつだが客がふえているようだ。それも真面目な人達が」と話す。「フランスにこんな多くの貴方の支持者がいるというのは当然とは言え、うれしくてしようがない気持だ」と私が言うと、彼はゆっくり語りだした。一頃は黒人であるだけで何でも客が入り、フリー・ジャズだと言って暴力的なサウンドを出せば客が集まった ものだったけれど、その頃の客より今の客の方が私は好きだし良いように思う。何故ならその人達は、ジャズを聴きに来るのではなく、黒人の演奏を聴きに来るのでもなく、私の演奏を聴きに来てくれているのだという実感があるからだ。私の演奏は決して楽しいものではないし、或種の体験を共有しようという人にとって本当の意味があるからなのです。」
 その夜は明方まで友人達とサン・ミシェルのカフェをはしごして回った。1人づつと1軒づつのカフェで別れて最後に1人になった私は、サン・ジェルマンのパブに席を取り、ずっとその“夜”の事について考えていた。寒さについて、そして冬について、ジャズについて、私の季節について…


4. レイシーとの対話(74年12月「ボナパルト通り」)

 二杯目のカフェ、エクスプレスに手をのばすと同時に、コール天の上下を着たレイシーがやって来た。白ワインをたのみながら彼は私に三枚のレコードをプレゼントしてくれた。I・C・Pのエリック・ドルフィーの『エピストロフィー』と、ハン・ベニンクとミシャ・メンゲルベルクのデュオのレコードそれにレイシー自身の『スクラップス』だ。
A「貴方に日本で会える日の近いことを祈っています。今だから言いますが、貴方は私にジャズヘの熱意を呼び戻させてくれた恩人の一人です。私はこの10年間、ジャズにまつわるすべての私の憎悪と愛着の中にいました。1度はジャズのクリエイティブな集団を創り上げようとし、ミュージシャンのエゴに裏切られ絶望しかけ、ジャズの終りを早くみたいと歯ぎしりしていた時期がありました。貴方の演奏を四年前に聴いた時、私はもう一度ジャズの現実の私の批評への意志を苛酷にさらそうと秘かに決意したのです。貴方はその時、ここにいてここにはいない無名性(アノニム)そのものだったのです。私はジャズにおいてのミュージシャンの特権に批評をもって対してゆくと思います。作業としての批評それはこれからの私の仕事(メチエ)なのです。」
L「私は貴方の存在を疑いません。おそらくここに私がいるように、貴方はそこにいるのです。いつも、私は演奏の時二つの意志を持ちます。一つは演奏に溶け込みそこに消えてゆく自我の意志ですし、一つはその演奏に覚醒し、遠くから見つめる客観の意志です。ですから貴方がクリティクの立場で言わんとしていることが良くわかるつもりでいます。前に言いましたように。“彼方”へと走ってゆくことだけが私の出来るすべてです。実現したもののどのようなものにも私の演奏の根拠はないのです。それは作業の過程の一つの決果であり、現われに過ぎないからです。」
A「おそらく、貴方が日本に来て日本のジャズのはなやかさの影にあるものに失望するだろうことは今から言っておきます。貴方は日本で個々のすぐれたミュージシャンや個人に出会うだけでしょう。昨日私は貴方に日本から持って来た日本のミュージシャンの数枚のレコードをわたしましたが、そこで貴方が発見したのも多分同じようなものだったと思います。貴方が日本で期待する日本のジャズ・ミュージシャンや作曲家はどういう人達か教えて下さい。」
L「レコードで聴いただけでは何とも言えませんが、トガシというパーカッショニストとヨシザワというベーシストにとても大きな興味を持っています。特にトガシという人のパーカッションはきわめて素晴らしいものですし、彼と一緒にやっているサトウというピアニストの才能も信じ得る素晴らしいものです。いずれにせよ、私は未知のものとの出会いの為に日本へ行くのでしょう。古くからの知り合いのユージ・タカハシや尊敬している作曲家のコスギや武満徹とも是非会いたいと思っています。」
A「貴方が来るとしたら単にコンサートの為にはしないつもりです。私の出来ること、つまり、日本のミュージシャンと貴方との出会いの場を作ることをやりますし、その事を通じて、日本のミュージシャンや貴方や私が出会うだろう未知へ向って行きたいと思っています。」

☆               ☆

 レイシーは常におだやかで親しみやすい静かな男である。彼の顔はそして流刑者と孤独な深究者の影をおびている。その顔は25年のありとあらゆるジャズの変転をみつめてきた眼を有しているのだ。常に重要なジャズ革新の過中にありながら常に孤独者であった彼が現在深く関わっている孤立と探究の地平は、少なく共ジャズについて考え、ジャズと共に過した季節を持つ我々の1人1人にも又深く関わっているはずなのだ。レイシーがどのようにあり得るかを見きわめるまなざしはそして、我々がレイシーに向けるものであると同時に我々自身を険征する為のまなざしであるに違いないのである。

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