ドキュメンタリー映画「AA」〜音楽批評家・間章 間章を知るために

単行本未収録原稿
即興音楽の組織化、デレク・ベイリーと“COMPANY”をめぐって
(『ジャズマガジン』77年8月〜「ディスク・イン・ザ・ワールド」時評)

 今年の5月24日から29日の6日間ロンドンのICAで行なわれた「カンパニイー」のコンサートについては本号でコンサート・レポートを書いているので個々では重複を避けるとして、この場では「カンパニイー」のオルガナイザーでもあり、発案者でもあり、最も中心的なメンバーでもあるデレク・ベイリーと彼の組織論について述べてみたい。2年前つまり彼が「カンパニイー」の結成を表明した時に発表した文章をここで引用してみよう。
「時にはフリー・インプロヴィゼイションの最も興味深い結果はミュージシャンの半アド・ホック的グループ化によってもたらされるように思える。レギュラー・グループを構成する方向へ向かう即興グループの集合化、できるだけ多くの機会に演奏し、それぞれの個性を生かし又共にひとつの根を持つグループ・ミュージックを開発してゆこうという試み、の傾向である。これらのことは持続的に生起しているが、しかし良く共に演奏しているが決して継続的にではなくまたセット(固定化されたグループ)やパーマネント・グループを基礎としているのではない形で多くの異なった国々のミュージシャンのプール(集まり)が発展し続けているということも確かなのだ。今フリー・インプロヴィゼイションの内に見い出された最も大きな可能性を生みだそうとするというタイプの「カンパニイー」は、決してパーソネルやスタイルに固定化されない、しかし共に相手の“仕事”に通じたミュージシャン達によって構成されたこのようなアンサンブルへ向おうとするのである。「カンパニイー」はこれらの可能性の開発を試みようとし、又多分これらの生み出されるべきリレーションシップの機会を切りひらく事を用意することを試みようとするものである。」
 つまり「カンパニイー」は単にフリー・セッションやフリー・グループ・インプロヴィゼイションといった事によってもたらされるものをより具体的組織的に発展させ濃密にしようとするためのグループ化と、又同時に固定化されたグループやまぬがれ得ないグループ的“なれ”や“安全”“予定調和的全体性”の破棄を共に目指すところに見い出されたひとつの「アド・ホック的」(混成的な、勝手気ままな、バラバラの、気まぐれに組み合わされたの意)な「過程的」「暫定的」なグループなのである。それは形態としてはファクトリィー(工場)に似ているが決して同一目的、或る具体的構築物を作るための“集まり”ではなく、すべての構成員は全体へ向けても個へも向けても自由な位置や行動をとり得る形で存在する。このような意味において「カンパニイー」はおよそ不安定な曖昧な形の共同体として、二律背反的なきわ立ちの上に存在する。言ってみればそれは反・組織的、反・集合的、非統一的集団として生み出さしているのだ。こうした「集まり」の概念は60年代初期からあったグループ・コンポージングやインプロヴィゼーション・グループの中にもすでにその始まりはあったが、「カンパニイー」の新しさはその構成の根本を“自覚的即興演奏行為者”においていることにあり具体的にはD・ベイリーの組織化・組織力において実現された新しさだ。「カンパニイー」が単なる観念や概念や理論を越えているのは、1人づつとのデュオから始めそれを次第に拡大していったベイリーの確認の作業と行動によっている。これらの行動によって示されるのはそして、何よりも「アナーキー」な、何よりも反秩序的な「アナーキズム」の行為者としてのD・ベイリーの姿である。“即興演奏にすべてをかける”ということ、それを単なる個的な行為に閉じ込めず、他者との関わりや生活やその他の一切に向けてゆこうとするベイリーの恐るべき執念こそが「カンパニイー」を通して感じられるのだ。実際に幾度か彼の演奏を聴いた経験を通して言えば彼はまさに“信じ難い演奏者”である。その“信じ難さ”はそして例えばここある2枚のレコード『COMPANY 2』と『DROPS』でもはっきりと見てとれるだろう。彼はまさに通時的、共時的な“時間”を破壊しまだ名付けられもしない“時空間”を切りひらくように演奏するし、彼自身の表現を破壊し、演奏によって生み出される自同率や連続性を解体させるかのように行為する。唯一無二の“アナーキー”な演奏者としてのベイリーがそしてあらゆる場面を通して浮び上がって来る。まさに“即興の鬼”としか言いようのない彼の異形が浮び上がって来るのだ。そして私はかつての「ミュージック・インプロヴィゼイション・カンパニイー」から「カンパニイー」への発展を彼の演奏の在り方においてこそ知ることが出来る。そしてそれが表わすものこそ肉と精神の修羅から生み出された今日のアルトーのような“新しい思想の在りか”決して思想そのものではない“在りか”なのである。このような今日的生な生ましさと切実さをかいま見せる演奏者としてのベイリーにたとえられる人間がまたといるだろうか。彼はまさに“制度化された(または制度にくるまれる)即興”の対極、自己表現や芸としての即興演奏の極北に位置する。しかしそうした彼の演奏を実際に聴くのではなくレコードで聴くのは余りにただ「確認」に似た、何かのぬけ落ちた“体験”のように思えるのはどういう事だろうか。「レコードは記録だ、そしてアピールだ」というベイリーは恐らく余りに記録にも醒めているのだ。そしてただ聴き手だけが途方にくれ、あせり、幾度も壁をかける。ベイリーが実務的以外にはあらゆるレコードを決して聴かないというレコードを。または“虚無のおくりもの”の相をおびた例えばベイリーのレコードを。

Bailey, Centazzo / Drops (Ictus 003)
Derek Bailey (eg, ag) Andrea Centazzo (ds, perc) / April 3 & 4, 1977
[A]1. Drop One / 2. Recapitulation, Reiteration And Rabbits / 3. How Long Has This Been Going On? / 4. Drop Two? [B]1. Tutti Cantabile / 2. Drop Three / 3. Drop Four? / 4. Sing, Sing, Sing, Sing, Sing / 5 Jim Never Seems To Send Me Pretty Flowers?
Parker, Bailey, Braxton / Company 2 (Incus 23)
Evan Parker (ss, ts) Derek Bailey (eg, ag) Anthony Braxton (ss, as, b-cl) / August 22, 1976
[A]1. Za'id / 2. Akhrajat [B]1. Al / 2. Mutala / 3. Hiq

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